
「承認欲求」という言葉を聞くと、
どんなイメージを持つだろう。
認められたい。
褒められたい。
評価されたい。
現代では、承認欲求という言葉が
良い意味で使われることもあれば、否定的な意味で使われることもある。
「承認欲求が強い人」
という言葉には、どこか未熟さや
依存のようなニュアンスが含まれることもある。
でも最近、私はふと思った。
承認欲求には、もともとの形と、
後から変化した形があるのではないだろうか、と。
小さな子どもはよく、
「見て見て!」
と言う。
絵を描いた時。
積み木ができた時。
走れた時。
何かを発見した時。
嬉しそうに駆け寄ってくる。
大人はそれを見て、
「褒めてほしいんだね」
と言うかもしれない。
確かにそういう側面もあるだろう。
でも私は最近、
それだけではない気がしている。
子どもは、
「認めてほしい」
というより、
「嬉しい!」
「楽しい!」
「できた!」
「一緒に見て!」
そんな感覚なのではないだろうか。
そこには、
自分の価値を証明したいという思いよりも、
自分が感じた喜びを
誰かと分かち合いたいという気持ちがあるように感じる。
そして、その喜びを
一緒に喜んでもらえた時、さらに嬉しくなる。
本来の承認欲求とは、
もしかするとそういうものなのかもしれない。
ところが、私たちは成長するにつれて、
少しずつ社会のルールを学んでいく。
いい点数を取る。
大会で結果を出す。
賞をもらう。
いい学校に入る。
資格を取る。
肩書きを持つ。
そうすると、いつの間にか
「何をしたいか」
よりも、
「何をすれば認められるか」
を考えるようになることがある。
すると、承認欲求の質が変わる。
本来は、
「見て!楽しいよ!」
だったものが、
「認めてほしい」
になり、
さらに、
「認められなければ価値がない」
へと変わっていくこともある。
もちろん、努力することが悪いわけではない。
目標を持つことも素晴らしいことだ。
けれど、それが本当に
自分の望みから生まれたものなのか。
それとも、認められるために選んだものなのか。
そこには大きな違いがあるように思う。
本当にやりたいから挑戦する。
好きだから学ぶ。
楽しいから続ける。
その結果として評価されることは、
とても自然なことだ。
でも、
認められるために頑張る。
価値があると思われるために努力する。
存在を証明するために結果を求める。
そんな生き方になると、
自分の本音から少しずつ離れていってしまう。
だから私は最近、
承認欲求そのものが悪いのではないと思っている。
むしろ、本来の承認欲求は大切なものだ。
嬉しいことを共有したい。
感じたことを伝えたい。
誰かと喜びを分かち合いたい。
それは人が人として自然に持っている願いなのだと思う。
大切なのは、
認められたいから生きるのか。
自分の喜びを生きた結果として認められるのか。
その違いなのかもしれない。
もし自分の本音がわからなくなった時は、
「私は何を認めてほしいのだろう?」
ではなく、
「私は本当は何が好きなのだろう?」
と問いかけてみたい。
その答えの中に、
幸せの魔法使い☆まみ
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