まっさらな瞳

こんにちは。

このブログ「まっさらな瞳」へようこそ。

 

ここは、あなたが本来の自分を思い出し、心をオープンにして、毎日を軽やかに、そして自分らしく生きるためのヒントをお届けする場所です。

 

私たちは生まれたとき、誰もが純粋な瞳を持っています。その瞳の奥には、ありのままの自分がいて、世界と柔らかくつながりながら輝く力があります。けれど、日々の生活や人との関わりの中で、その純粋さや自由さを忘れてしまうこともあります。

 

このブログでは、

 

自己信頼や内なる叡智を思い出すこと

 

自分らしい生き方を育む気づき

 

夢を叶えながら、心地よく輝く日々のヒント

 

などを、私自身の体験や講座での学びとともにお届けしていきます。

 

ヒーラー養成講座やセクシャルウェルネスなどの学びも、この「真っさらな瞳」という視点で統合され、あなたの中の本来の力を呼び覚ますきっかけになれば嬉しいです。

 

さあ、一緒に、目を覚ましたばかりの赤ちゃんのような、真っさらな瞳で、毎日を見つめてみませんか。


人に会わなくてもいい時期があっていい——私の「小さな鎖国時代」


 

「人とのご縁を大切にしましょう」

 

「人に会うことで、新しいご縁やチャンスが生まれます」

 

「家に閉じこもっていないで、外に出ましょう」

 

そんな言葉を、これまで何度も聞いてきました。

 

確かに、人との出会いから新しい世界が広がることはあります。

 

人からご縁をいただくこともあれば、知らなかったことを教えてもらったり、新しい刺激を受けたりすることもあります。

 

私自身、人との出会いや交流からいただいたものはたくさんあります。

 

でも今日、ふと思ったことがありました。

 

人が運んでくるものは、「良いご縁」だけではないんですよね。

 

人と関われば、その人の考え方や価値観、情報、感情、期待など、いろいろなものが自分の世界に入ってきます。

 

もちろん自分自身も、相手の世界に何かを運んでいる存在です。

 

そう考えると、

 

「人に会えば会うほどいい」

「外に出れば出るほどいい」

 

とは、必ずしも言えないのではないかと思ったのです。

 

 

 

 

 

 

ご縁を求めて、意味もなく出かけていた頃


 

以前の私は、

 

「外に出たほうがいい」

「人に会ったほうがいい」

「そうすれば何か新しいご縁があるかもしれない」

 

という言葉を聞いて、特に目的もないのに出かけたことが何度かありました。

 

その頃は、自分でも気づいていなかったけれど、どこかに期待があったんです。

 

出かければ、何かいいことがあるかもしれない。

 

素敵なご縁があるかもしれない。

 

新しい情報が入ってくるかもしれない。

 

でも今振り返ってみると、そこには期待だけではなく、恐れもあったように思います。

 

「動かなかったら、何かを逃してしまうのではないか」

 

「置いていかれるのではないか」

 

「運のいい人になれないのではないか」

 

「人生の波に乗れなくなってしまうのではないか」

 

だから私は、「出かけたいから出かける」のではなく、

 

何かを逃さないために出かけていた。

 

そんなところがあったのだと思います。

 

そして不思議なことに、そうやって無理に出かけたときに、特別印象に残るようなご縁や出来事があったかというと、私の場合はそうではありませんでした。

 

 

 

 

 

 

今の私は、ちょっとした「鎖国時代」


 

今の私は、以前とは反対に、必要最低限の人との交流をしながら、かなり静かに過ごしています。

 

もちろん仕事などで必要なお声掛けをいただいたときには、可能な限り喜んでお応えしています。

 

人との交流を拒絶しているわけでもありません。

 

でも、自分から積極的に人に会いに行ったり、人脈を広げようとしたりはしていません。

 

私は今のこの時期を、ちょっと面白く、

 

「私の鎖国時代」

 

と呼びたくなりました。

 

歴史上の日本の「鎖国」も、外国との交流を完全にゼロにしていたわけではありません。

 

江戸幕府の対外関係が制限された1630年代以降も、長崎を通じたオランダ・中国との交易、対馬藩を通じた朝鮮との関係、薩摩藩を介した琉球との関係、松前藩を通じたアイヌとの交易など、限られた窓口を通じて外との関係は続いていました。

 

私も今、そんな感じなのかもしれません。

 

すべてを閉ざしたいわけではない。

 

必要な交流はある。

 

でも、むやみに外から何かを入れようとはしていない。

 

なぜなら今の私は、

 

自分のことをもっと知りたいから。

 

そして、自分自身と過ごすこの時間が、今の私にとって本当に心地よい。

 

むしろ、至福の時間だと感じているからです。

 

 

 

 

 

 

人に会う時間だけでなく、自分に会う時間もある

 

 

人に会えば、刺激があります。

 

情報も入ってきます。

 

相手の価値観にも触れます。

 

それはとても豊かなことでもあります。

 

でも、人に会うことも、SNSを見ることも、本を読むことも、ある意味では「外から何かを入れる時間」なのだと思います。

 

そして最近、私はこんなことを感じるようになりました。

 

入れる時間と、生まれる時間は違う。

 

外から入ってくるものを少し減らしてみる。

 

人の声を少し減らしてみる。

 

すると、その余白から今まで聞こえなかった自分の声が聞こえてくることがあります。

 

「私はこれが嫌だったんだ」

 

「私はこういうものが好きなんだ」

 

「本当はこんなことをしてみたい」

 

「私はこういう世界を作りたい」

 

外から何かを入れているときには聞こえなかったものが、静かな時間の中から少しずつ生まれてくる。

 

だから、人に会う時間と同じくらい、

 

自分に会う時間も大切なのだと思います。






 

「行きたくない」も、大切な自分の声


 

以前の私は、自分以外の誰かが言ったことを、自分の感覚より正しいもののように感じることがありました。

 

特に知識や経験が豊富な人、肩書きのある人、何かの分野で結果を出している人の言葉には、

 

「きっと、この人の言っていることが正しいんだ」

 

と思いやすかったように思います。

 

今振り返ると、それは自分自身の声よりも、外の声を聞くことに意識が向いていたからなのかもしれません。

 

自分とのつながりや、自己信頼がまだ弱かった。

 

だから外の声の影響を受けやすかったのだと思います。

 

でも本来、人はもっと単純なところもあります。

 

眠ければ眠りたい。

 

食べたければ食べたい。

 

好きなら好き。

 

行きたいなら行きたい。

 

行きたくないなら行きたくない。

 

もちろん社会生活をしていれば、行きたくなくても行かなければならない場所や、やりたくなくてもやる必要のあることもあります。

 

でも、少なくとも自分で自由に選べる日常の中では、

 

「私はどうしたい?」

 

をもっと大切にしていいのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

自分の声を、聞き捨てにしない


 

「本当は家にいたい」

 

と思っているのに、

 

「外に出なきゃ運を逃すよ」

 

という外の声を優先して出かける。

 

「私はこれは選びたくない」

 

と思っているのに、

 

「みんなやっているから」

 

と選んでしまう。

 

一つ一つは小さなことに見えるかもしれません。

 

でも、自分にとっては決して小さなことではありません。

 

それを繰り返すことは、

 

「私はこうしたい」

 

という自分の声より、

 

「外の誰かがこう言っている」

 

という声を優先し続けることでもあります。

 

反対に、

 

「今日は家にいたい」

 

「そうなんだね。じゃあ今日は家にいよう」

 

「これは嫌だな」

 

「そうなんだね。じゃあ選ばなくていいよ」

 

と、自分の声を聞いてあげる。

 

私は、こういう小さな積み重ねが、自分との信頼関係を作っていくのだと思います。

 

そして、どうしてもその希望を叶えてあげられないときには、

 

「本当は行きたくないよね。でも今日は仕事だから行く必要があるんだ」

 

と、自分に話しかけてあげればいい。

 

すべての願いを叶えられなくてもいい。

 

でも、

 

自分の声を、なかったことにしない。

 

それがとても大切なのだと思います。

 

 

 

 

 

 

今は、自分という国の文化を育てている


 

私は今、人とのご縁を広げることより、自分とのご縁を深めたいと思っています。

 

人に会わないから人生が止まっているわけではありません。

 

外から見れば何も起きていないような静かな時間の中で、むしろ私は、自分自身についてたくさんのことを発見しています。

 

何が好きなのか。

 

何が嫌なのか。

 

何をしたいのか。

 

どんな世界を作りたいのか。

 

どんなふうに生きたいのか。

 

今の「小さな鎖国時代」は、外との関係を拒絶する時間ではなく、

 

自分という国の文化を育てる時間

 

なのかもしれません。

 

そして、また外へ出たくなったら、そのとき出ればいい。

 

誰かに会いたくなったら、会えばいい。

 

「人に会ったほうがいいから会う」のではなく、

 

「私はこの人に会いたいから会う」。

 

「外に出れば何かあるかもしれないから出る」のではなく、

 

「私は今日ここへ行ってみたいから行く」。

 

そんなふうに、自分の感覚から選んでいきたい。

 

ご縁をつかむために、自分を置き去りにするのではなく。

 

まずは、自分自身とのご縁を大切にする。

 

今の私にとって、この静かな時間は何かが足りない時間ではありません。

 

自分自身と一緒にいられる、とても豊かで、至福の時間なのです。







魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

 

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから

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「ちゃんとできるようになってから」を待たなくていい


 

前回、自分を知ることと、自分を固定することは違う、ということについて書きました。

 

「私は三日坊主だから」

 

「私は飽き性だから」

 

「今までやったことがないから」

 

過去の出来事から自分にラベルを貼り、そのラベルで未来の自分まで決めなくていい。

 

今、

 

「面白そう」

 

「やってみたい」

 

と思ったなら、とりあえずやってみてもいい。

 

そんなことを考えていました。

 

すると、また一つ、自分の中にあるものに気づきました。

 

私はどうやら、

 

「人前でやるなら、ちゃんとできるようになってから」

 

と思っているところがあるようなのです。

 

 

 

 

 

 

「面白そう」のあとに、審査が始まる


 

たとえば何かを見て、

 

「これ面白そう!」

 

と思う。

 

「ライブでちょっとやってみようかな」

 

「このテーマで動画を撮ってみようかな」

 

そんな気持ちがふっと湧いてくる。

 

でも、その直後、

 

「でも、この世界にはプロの人がいるし……」

 

「詳しい人から見たら、ど素人がやっていると思われるんじゃないかな」

 

「ダメ出しされたらどうしよう」

 

「もう少しちゃんとできるようになってからのほうがいいかな」

 

という考えが出てくることがあります。

 

せっかく、

 

「面白そう!」

 

と小さな火がついたのに、自分で審査を始めてしまうのです。

 

そして審査に合格するまで、始めることを許可しない。

 

でも、考えてみたら不思議です。

 

私はいつから、

 

何かを楽しむために、プロになる必要がある

 

と思うようになったのでしょう。

 

 

 

 

 

 

専門家として教えることと、初心者としてやってみることは違う


 

もちろん、専門性が必要な領域はあります。

 

医療や法律、安全に関わること、資格が必要なことなどを、十分な知識もなく専門家のように扱っていいという話ではありません。

 

また、誰かに何かを「教える」「指導する」となれば、その内容に応じた知識や責任も必要でしょう。

 

でも、

 

興味を持った一人の人として、自分でやってみること

 

とは別です。

 

たとえばASMRを見て、

 

「なんか面白そう。私もやってみたい」

 

と思った。

 

だったら、

 

「初めてだけど、ちょっとやってみました」

 

でもいい。

 

それは、

 

「私はASMRの専門家です」

 

と言っているわけではありません。

 

ただ、

 

面白そうだから、やってみた人。

 

それでいいんですよね。

 

 

 

 

 

 

「素人」は現在地であって、禁止札ではない


 

私はここで、自分に「素人」というラベルを貼っていたことにも気づきました。

 

「私は素人だから」

 

そして、その後に無意識に、

 

「人前でやってはいけない」

 

「動画にしてはいけない」

 

「もっと上手になってからでなければ」

 

という意味までつけていた。

 

でも、

 

「やったことがない」

 

ということと、

 

「やってはいけない」

 

は全然違います。

 

「この分野について、今の私はほとんど経験がない」

 

なら、それはただの現在地です。

 

前回の記事で、

 

「3日でやめた」は出来事。

 

「私は三日坊主」は人格のラベル。

 

と書きました。

 

それと同じです。

 

「まだ経験がない」は事実。

 

でも、

 

「だから私は人前でやってはいけない」

 

は、自分で作ったルールです。

 

だったら、

 

「やったことない。じゃあ、初めてやってみよう」

 

でもいいのです。

 

 

 

 

 

 

プロを、自分の参加資格を決める審査員にしなくていい


 

「この世界のプロから見たら、どう思われるだろう」

 

そんなことを考えることもあります。

 

でも実際にその人がどう思うのかは、確認できません。

 

「初心者なのに」と思う人もいるかもしれない。

 

「楽しそうでいいね」と思う人もいるかもしれない。

 

何とも思わないかもしれない。

 

そもそも、見ないかもしれない。

 

分からないことです。

 

それなのに、頭の中でその人を審査員にして、

 

「この人からOKをもらえるくらいにならないと、私はやってはいけない」

 

というルールを作ってしまったら、自分の世界がどんどん狭くなってしまいます。

 

プロは、その世界について多くの経験を積んできた人。

 

でも、

 

その人が上手だからといって、私が初心者として楽しむ権利が減るわけではありません。

 

ここでも、以前書いた言葉につながります。

 

刺激や感動は持って帰る。

でも、順位表は持って帰らない。

 

「あの人、すごいな!」

 

それでいい。

 

「だから私はやってはいけない」

 

まで持って帰らなくていいのです。

 

 

 

 

 

 

「ちゃんとできるようになってから」では、いつまでも始まらないことがある


 

そして、ここでもう一つ気づきました。

 

「ちゃんとできるようになってから始めよう」

 

という言葉には、少し不思議なところがあります。

 

なぜなら、

 

やらなければ、できるようにならないからです。

 

最初は分からない。

 

やってみる。

 

「あれ?」

 

となる。

 

またやってみる。

 

「こうするといいのかな」

 

と気づく。

 

もう一度やってみる。

 

「私はこういうやり方が好きだな」

 

と分かってくる。

 

そうやって少しずつ、自分なりのものができていく。

 

だから、

 

「ちゃんとできる私になってから、やる」

 

ではなく、

 

「やりながら、できるようになっていく」

 

でもいいのだと思います。

 

そして、別にできる人にまでならなくてもいい。

 

3回やって、

 

「楽しかった! もう満足!」

 

でもいい。

 

 

 

 

 

 

「これさえ学べば、自信がつく」の繰り返し


 

このことを考えていて、私は気功やヒーリングを学んできた中でのことを思い出しました。

 

学んでいると、

 

「これを学べば、もっとちゃんとできるようになるかもしれない」

 

「これさえ身につければ、自信がつくかもしれない」

 

と思うことがあります。

 

そして学ぶ。

 

知識や技術が増える。

 

でも、しばらくすると、

 

「私はまだまだだ」

 

と思う。

 

そして、

 

「もう少し学んでから」

 

と、また新しいことを学ぶ。

 

もちろん、学ぶことそのものは素晴らしいことです。

 

知識を増やすことにも、技術を磨くことにも価値があります。

 

でも、

 

「十分な自信がつくまで実践しない」

 

という条件をつけると、いつまでもスタート地点が先へ動いていくことがあります。

 

学べば学ぶほど、知らないことが見えてくることだってあるからです。

 

「全部分かってから」

 

「十分できるようになってから」

 

を待っていたら、その日はなかなか来ないのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

実践そのものが、学びになる


 

練習で身につくことは、たくさんあります。

 

でも、実際の場に出なければ分からないこともあります。

 

予想していなかった反応が返ってくる。

 

思ったように進まない。

 

いつもの方法が通用しない。

 

その場で考える必要が出てくる。

 

そして、

 

「あれ?」

 

となる。

 

考える。

 

工夫する。

 

もう一度やってみる。

 

少し分かる。

 

また新しい疑問が出る。

 

こういう経験は、実践の中だからこそ得られるものです。

 

だから学びは、

 

学ぶ → 完成する → 実践する

 

という一直線だけではなく、

 

学ぶ → やってみる → 分からないことが出る → 学ぶ → またやってみる

 

という往復でもいいのだと思います。

 

すると「学ぶ」の意味まで変わります。

 

「今の自分では足りないから学ばなければ」

 

ではなく、

 

「やってみたら、もっと知りたいことが出てきた」

 

になる。

 

私は、こちらの学び方もとても好きです。

 

 

 

 

 

 

自信がついてからやる、だけではない


 

そして、ここで「自己信頼」の話にもつながりました。

 

自信というと、

 

「私はちゃんとできる」

 

「きっとうまくいく」

 

と思えることを想像しやすいかもしれません。

 

でも、もう一つの自信があるのだと思います。

 

それは、

 

「うまくいくかは分からない。でも、どちらになっても私は大丈夫」

 

という感覚です。

 

うまくいった。

 

「やった!」

 

それでいい。

 

うまくいかなかった。

 

「なるほど。ここが分かった」

 

それもいい。

 

間違えた。

 

「じゃあ、次はこうしてみよう」

 

思った以上にグダグダになった。

 

「初めてだし、こんなこともある(笑)」

 

そしてまた考える。

 

これは、

 

「失敗しない自分への自信」ではなく、「何かあってもまた考えて進んでいける自分への信頼」

 

なのだと思います。

 

 

 

 

 

 

うまくいかなかった経験も、次の一つのピースになる


 

何かをやって、うまくいかなかった。

 

以前なら、

 

「失敗した」

 

という一言で終わらせていたかもしれません。

 

でも今は、

 

次にうまくいくための一つのピースが増えた

 

とも考えられると思っています。

 

「あの方法ではうまくいかなかった」

 

ということが分かった。

 

「ここでは緊張するんだ」

 

と分かった。

 

「この準備が必要だったんだ」

 

と分かった。

 

「私はこういうやり方のほうが好きなんだ」

 

と分かった。

 

全部、実際にやったから分かったことです。

 

だから、

 

うまくできた経験だけが価値のある経験なのではありません。

 

うまくいかなかった経験も、自分の中に残る大切な一つのピースです。

 

 

 

 

 

 

「ちゃんとしなければ」も、自分を固定する言葉だった


 

ここまで考えて、もう一つ気づきました。

 

「やるからには、ちゃんとしなければ」

 

「失敗してはいけない」

 

「間違ってはいけない」

 

「完璧にやらなければ」

 

こういう言葉も、自分を固定することにつながっているのかもしれません。

 

以前の記事で、

 

「私は優しい人だから、怒ってはいけない」

 

という例を書きました。

 

これと似ています。

 

「私は優しい」

 

で終わればいい。

 

優しい私だって、怒ることはあります。

 

同じように、

 

「私はこれをやってみたい」

 

で終わってもいい。

 

やってみたい私だって、失敗することはあります。

 

最初から上手にできないこともあります。

 

間違えることだってあります。

 

それなのに、

 

「やるなら、うまくできる私でなければならない」

 

という条件をつけると、まだ何もしていない自分を、先に一つの型へ入れてしまいます。

 

 

 

 

 

 

「うまくできる自分」だけをOKにしない


 

自己信頼とは、

 

「私は絶対失敗しない」

 

と信じることではないのだと思います。

 

だって、失敗することはあります。

 

間違えることもあります。

 

分からなくなることもあります。

 

それでも、

 

「そのときは、そのときの私と一緒に考えよう」

 

と思える。

 

それも自己信頼なのではないでしょうか。

 

成功する私だけを信頼するのではなく、

 

失敗するかもしれない私も、

 

戸惑う私も、

 

分からなくなる私も含めて、

 

「それでも私は大丈夫」

 

と思える。

 

そうすると、失敗の可能性があっても動けます。

 

「絶対成功するからやる」

 

ではなく、

 

「どうなるか分からないけれど、やってみよう」

 

ができるようになります。

 

 

 

 

 

 

「失敗してもいい」は、雑にやるという意味ではない


 

ここは大切にしたいところです。

 

「失敗してもいい」

 

というのは、

 

「適当にやればいい」

 

ということではありません。

 

必要な準備をする。

 

自分なりに丁寧にやる。

 

人に関わることなら、必要な責任を持つ。

 

専門性が必要なところでは、その境界を守る。

 

そのうえで、

 

結果まで完璧に支配しようとしない。

 

丁寧に取り組むことと、

 

完璧でなければならないことは違います。

 

私は、自分なりに大切にやった。

 

その結果、うまくいかなかった。

 

なら、そこからまた考えればいい。

 

それで十分なのだと思います。

 

 

 

 

 

 

「まだこんな自分がいた」も、また一つの自己理解


 

そして今回、

 

「まだ私の中に、こんな『ちゃんとしなきゃ』があったんだ」

 

とも思いました。

 

でも、ここでもまた同じことです。

 

「私は完璧主義な人なんだ」

 

と、新しいラベルを貼らなくてもいい。

 

ただ、

 

「こういう場面では、私は『ちゃんとしなきゃ』と思うことがあるんだな」

 

と知ればいい。

 

それも一つの自己理解です。

 

また同じものが出てきたら、

 

「あ、また出てきた」

 

と気づけばいい。

 

それを追い出す必要もない。

 

「こんな考えがまだあるなんて、私はダメ」

 

とする必要もない。

 

ここでも、

 

自分を知る。でも、自分を固定しない。

 

なんですよね。

 

 

 

 

 

 

「面白そう」から始めていい


 

結局、また最初のところへ戻ってきます。

 

「これ、面白そう」

 

と思った。

 

だったら、やってみる。

 

うまくいったら嬉しい。

 

うまくいかなかったら、何か一つ分かる。

 

思っていたのと違ったら、やめてもいい。

 

すごく好きになったら、もっとやればいい。

 

そしてもっと知りたくなったら、そのとき学べばいい。

 

始める前から、

 

「これは将来何になる?」

 

「仕事になる?」

 

「プロになれる?」

 

「続けられる?」

 

「ちゃんとできる?」

 

と、未来の自分を審査しなくてもいい。

 

今日の私は、これを面白がってみたい。

 

それだけで始めてもいい。

 

 

 

 

 

 

自分を固定しないということは、体験の結末も固定しないこと


 

今回、私にとって新しく見えてきたのはここでした。

 

自分を固定しないというのは、

 

「私は○○な人」

 

と人格を決めつけないことだけではない。

 

「こういう結果にならなければならない」

 

と、これから起こる体験の結末まで固定しないことでもあるのだと思います。

 

成功してもいい。

 

失敗してもいい。

 

続いてもいい。

 

やめてもいい。

 

夢中になってもいい。

 

「なんだこりゃ(笑)」で終わってもいい。

 

結果を決めてから人生を体験するのではなく、

 

体験してから、自分が何を感じるのかを知る。

 

そのほうが、私は面白いと思います。

 

 

 

 

 

 

自己信頼とは、「何があっても自分と一緒にいられること」なのかもしれない


 

ここまで考えて、私にとっての自己信頼というものが、また少し見えてきたように思います。

 

「私は必ず正しくできる」

 

でもない。

 

「私は絶対に失敗しない」

 

でもない。

 

「私はいつでも自信がある」

 

でもない。

 

うまくいくこともある。

 

うまくいかないこともある。

 

間違えることもある。

 

不安になることもある。

 

途中で考えが変わることもある。

 

それでも、

 

そのときの自分と一緒に考えて、また次を選んでいける。

 

それを信じられること。

 

もしかすると、それが私にとっての自己信頼なのかもしれません。

 

失敗しないから、自分を信じられるのではない。

 

失敗した自分とも一緒にいられるから、やってみることができる。

 

だから、新しいものに手を伸ばせる。

 

だから、「面白そう」を追いかけられる。

 

だから、まだ知らない自分に出会える。

 

 

 

 

 

 

 

結局、また自分のところへ戻ってきた



 

嫉妬について考えるところから始まった今回の一連の話。

 

人と比べること。

 

外側からの評価。

 

自己価値。

 

年齢や性別、肩書きというカテゴリー。

 

「私は○○な人」という自己イメージ。

 

三日坊主。

 

何者かにならなくてもいいということ。

 

そして、

 

「ちゃんとできるようになってから」

 

「失敗してはいけない」

 

という思い。

 

一見すると、どんどん違う話へ進んでいるように見えました。

 

でも振り返ると、全部が同じところにつながっているように感じます。

 

外側の物差しで、自分を決めない。


過去の自分で、今の自分を決めない。


結果によって、自分の価値を決めない。

 

そして、

 

そのとき、そのときの自分と一緒に生きていく。

 

うまくできてもいい。

 

うまくできなくてもいい。

 

笑ってもいい。

 

怒ってもいい。

 

不安になってもいい。

 

夢中になってもいい。

 

飽きてもいい。

 

やってみて、

 

「違った!」

 

でもいい。

 

その全部を体験しながら、

 

「じゃあ、今の私はどうしたい?」

 

とまた自分に戻ってくる。

 

人生を完璧に進めることより、

 

その都度、自分とつながりながら次を選んでいくこと。

 

それができるなら、失敗することも、間違えることも、もう人生から排除しなくていいのかもしれません。

 

失敗しない人生より、

 

失敗しても、自分を置いていかない人生。

 

私は、そんなふうに自分と一緒に歩いていきたいと思います。







魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

 

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから

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自分を知ることと、自分を決めつけることは違う


 

これまで、人を一つの物差しで測らないことについて考えてきました。

 

年齢。

 

性別。

 

学歴。

 

職業。

 

出身地。

 

それらは、その人について知る一つの情報ではあるけれど、その人そのものではありません。

 

だから私は、

 

「○歳だから」

 

「男性だから、女性だから」

 

「○○大学卒だから」

 

「この仕事をしているから」

 

というカテゴリーから人を決めるのではなく、

 

「この人は、どんな人なんだろう?」

 

と、その人自身を見ていきたいと思っています。

 

でも、ここまで考えたところで、もう一つ大切なことに気づきました。

 

それは、

 

他人だけではなく、自分自身のこともカテゴリーに入れなくていい

 

ということです。

 

そして、これは年齢や性別だけの話ではありません。

 

私たちは、ときに自分自身の過去の経験から、

 

「私はこういう人」

 

というラベルを作ってしまうことがあります。

 

 

 

 

 

 

「私は○○な人」という自己イメージ


 

たとえば、

 

「私は飽き性だから」

 

「私は三日坊主だから」

 

「私は何をやっても続かないから」

 

そんなふうに、自分について思うことがあります。

 

私自身も、以前はそんなふうに思っていたことがありました。

 

何かを始めても長く続かなかった。

 

途中で興味がなくなった。

 

そんな経験が何度かあると、

 

「私は飽き性なんだ」

 

「私は三日坊主なんだ」

 

と、自分自身を説明する言葉になっていきます。

 

でも今考えてみると、

 

「3日でやめた」という出来事と、「私は三日坊主な人」という自己定義は、まったく同じではありません。

 

3日でやめた。

 

これは出来事です。

 

でも、

 

「だから私は三日坊主な人間だ」

 

となった瞬間、その出来事が人格のラベルになります。

 

 

 

 

 

 

出来事を、人格のラベルに変換しなくていい


 

これは、とても大切なことだと思います。

 

たとえば以前、何かを3日でやめたとします。

 

それは、

 

「そのとき、そのことを3日でやめた」

 

という事実です。

 

でも、そこから、

 

「私は続けられない人」

 

と決める必要はありません。

 

なぜなら、それは過去についての出来事であって、未来についての答えではないからです。

 

ところが、

 

「私は三日坊主」

 

というラベルを自分につけてしまうと、次に何か面白そうなものを見つけたとき、

 

「やってみたい!」

 

とワクワクした直後に、

 

「でも私、三日坊主だからな」

 

「どうせまた続かないだろうな」

 

という言葉が出てくることがあります。

 

まだ始めてもいないのに。

 

前回の出来事から作った自己イメージによって、これから起こることまで予測してしまう。

 

せっかく小さな火が灯ったのに、

 

自分でその火を消してしまう。

 

それは、とてももったいないことだと思います。

 

 

 

 

 

 

「やったことがない」も未来の答えではない


 

同じように、

 

「今までやったことがないから」

 

という言葉もあります。

 

確かに、今までやったことがない。

 

それは事実です。

 

でも、それが意味しているのは、

 

「今日まで経験していない」

 

ということだけです。

 

「今までやったことがない」

 

と、

 

「これからもやらない」

 

は違います。

 

「今まで経験していない」

 

と、

 

「私には向いていない」

 

も違います。

 

今までやったことがなくても、

 

「なんか面白そう」

 

と思ったなら、やってみてもいい。

 

むしろ、やったことがないからこそ、

 

まだ知らない自分に出会えるかもしれません。

 

 

 

 

 

 

とりあえず、やってみればいい


 

最近私は、何かに興味を持ったとき、

 

「続けられるかな?」

 

を最初に考えなくてもいいと思っています。

 

まず、

 

「やりたい」

 

と思った。

 

それなら、とりあえずやってみる。

 

やってみて面白かったら、またやる。

 

もっと知りたくなったら、学ぶ。

 

夢中になったら、夢中になればいい。

 

気づいたら半年、1年、10年と続いていることだってあるかもしれません。

 

反対に、やってみたら、

 

「あれ? 思っていたのと違う」

 

となることもある。

 

「これは私の好みじゃなかったな」

 

「もう十分かな」

 

と思うこともある。

 

だったら、やめてもいい。

 

それは失敗なのでしょうか。

 

私は、そうは思いません。

 

やってみたからこそ、

 

「これは今の私が求めているものではなかった」

 

と分かったのです。

 

それも、自分について知ったことの一つです。

 

 

 

 

 

 

続けることには価値がある。でも、続けられる人のほうが価値があるわけではない


 

もちろん、継続することには価値があります。

 

何年も続けることでしか身につかない技術もあるでしょう。

 

長く続けたからこそ見える世界もあります。

 

だから、

 

「継続なんて意味がない」

 

という話ではありません。

 

続けることには、続けることの価値がある。

 

でも、

 

「続けられる人のほうが、人として価値がある」

 

とは思いません。

 

ここは、まったく別の話です。

 

10年間続けた。

 

素晴らしい。

 

3日でやめた。

 

そうだったんだね。

 

それだけでいい。

 

「10年間続けたから、私は価値がある」

 

「3日でやめたから、私はダメ」

 

と、自分自身の価値までそこへ乗せなくていいのです。

 

これは、これまで考えてきた、

 

「評価と自己価値を切り離す」

 

ということと同じです。

 

続けたか。

 

続かなかったか。

 

それは一つの結果。

 

でも、自分の価値を測る採点結果ではありません。

 

 

 

 

 

 

「今の私は、まだこれをやりたい?」

 

私は、何日続いたかよりも、

 

「今の私は、まだこれをやりたい?」

 

ということのほうを大切にしたいと思います。

 

やりたい。

 

だったら続ける。

 

もういいかな。

 

だったらやめる。

 

分からない。

 

だったら少し休んでもいい。

 

そして、一度やめたことを半年後に、

 

「やっぱりまたやりたい」

 

と思ったら、また始めてもいい。

 

一度やめたら、二度と戻ってはいけないわけでもありません。

 

自分の気持ちは変わります。

 

興味も変わります。

 

それでいいのだと思います。

 

 

 

 

 

 

自己理解は、自分を固定することではない

 

 

私は、自分を知ることはとても大切だと思っています。

 

私は何が好きなのか。

 

何が嫌なのか。

 

何を心地よいと感じるのか。

 

何を大切にしたいのか。

 

どんなことに心が動くのか。

 

そうやって自分自身を知っていく。

 

でも、

 

自己理解と自己固定は違います。

 

「私はこれが好き」

 

と知ることと、

 

「私はこれを好きでいなければならない」

 

は違います。

 

今、大好きでもいい。

 

そして数年後、興味がなくなってもいい。

 

「昔の私は大好きだった。でも今は違うみたい」

 

それだけです。

 

昨日まで興味がなかったことに、今日突然惹かれてもいい。

 

「へえ、今の私、こんなものに興味を持つんだ」

 

と、新しい自分を知ればいい。

 

自己理解とは、

 

完成した自分の取扱説明書を作ることではなく、変化していく自分と、その都度出会い直すこと

 

なのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

プラスのラベルなら、楽しく使えばいい


 

では、

 

「私は魅力的」

 

「私は優しい」

 

「私は明るい」

 

という、肯定的な自己イメージはどうでしょう。

 

私は、こういうものは楽しく持っていていいと思っています。

 

「私って魅力的」

 

うふふ。

 

それで終わり(笑)。

 

「私って優しいな」

 

それで終わり。

 

自分でそう思って、ちょっと嬉しくなったり、ニヤニヤしたり、気分が上がったりする。

 

そのくらいラフでいいと思います。

 

問題になるとしたら、その後に、

 

「だから○○しなければならない」

 

がついたときです。

 

 

 

 

 

 

「私は優しい。だから怒ってはいけない」は、もう別のもの


 

「私は優しい」

 

で終わればいい。

 

でも、

 

「私は優しい人だから、怒ってはいけない」

 

となったらどうでしょう。

 

「私は明るい人だから、落ち込んではいけない」

 

「私は自信のある人だから、不安になってはいけない」

 

「私は強い人だから、弱音を吐いてはいけない」

 

そうなった瞬間、もともとは自分を肯定するための言葉だったものが、

 

自分を縛るルール

 

に変わってしまいます。

 

優しい人だって怒ります。

 

明るい人だって落ち込みます。

 

自信がある人だって不安になります。

 

魅力的な人だって、変顔くらいします(笑)。

 

それで魅力がなくなるわけではありません。

 

人間には、いろいろな面があります。

 

一つの言葉だけで、その人全部を説明することなんてできないのだと思います。

 

 

 

 

 

 

「自分らしさ」のために、本当の自分を追い出さない


 

これは考えてみると、とても不思議なことです。

 

「私は明るい人」

 

という自分らしさを守るために、

 

今、本当に悲しんでいる自分へ、

 

「悲しんではいけない」

 

と言う。

 

「私は優しい人」

 

という自分らしさを守るために、

 

今、本当に怒っている自分へ、

 

「怒ってはいけない」

 

と言う。

 

それでは、

 

「自分らしさ」を守るために、今ここにいる自分を否定する

 

という逆転が起きてしまいます。

 

私は、それは少し違うと思います。

 

悲しいなら、悲しい。

 

怒っているなら、怒っている。

 

今日は自信がないなら、

 

「今日はちょっと不安なんだな」

 

でいい。

 

それも全部、自分です。

 

 

 

 

 

 

自分らしさは、固定されたキャラクターではない


 

もしかすると、自分らしさとは、

 

「私は明るくて、優しくて、前向きで……」

 

という固定されたキャラクターではないのかもしれません。

 

楽しい私。

 

悲しい私。

 

怒っている私。

 

自信のある私。

 

不安な私。

 

何かに夢中な私。

 

急に飽きた私。

 

10年続けた私。

 

3日でやめた私。

 

全部、自分です。

 

そのたびに、

 

「だから私は○○な人」

 

と結論を出さなくてもいい。

 

ただ、

 

「今の私は、そうなんだね」

 

と知る。

 

それでいいのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

何者かにならなくても、やっていい


 

そして、ここからもう一つ思うことがあります。

 

何かをするために、

 

「何者か」にならなくてもいい。

 

絵を描きたいなら、描けばいい。

 

「アーティスト」にならなくてもいい。

 

踊りたいなら、踊ればいい。

 

「ダンサー」と名乗らなくてもいい。

 

文章を書きたいなら、書けばいい。

 

何かを学びたいなら、学べばいい。

 

もちろん、仕事上必要な肩書きを使うこともあるでしょう。

 

自分が気に入っている肩書きを名乗るのもいい。

 

でも、

 

肩書きは、行動するための許可証ではありません。

 

「私は○○な人だから、これをしていい」

 

ではなく、

 

「やりたいから、やってみる」

 

でいい。

 

ただ何かをやっている。

 

ただ楽しんでいる。

 

それだけでも十分なのだと思います。

 

 

 

 

 

 

過去の自分にも、今の自分を決めてもらわなくていい


 

ここまで考えてくると、以前の記事からずっと続いてきた話が、また一つにつながりました。

 

他人の物差しで、自分を測らなくていい。

 

自分の物差しで、他人を決めなくていい。

 

年齢や性別や肩書きで、自分を決めなくていい。

 

そして、

 

過去の自分から作った物差しで、今の自分を決めなくてもいい。

 

「昔の私はこうだった」

 

それは事実。

 

でも、

 

「だから今の私もこう」

 

とは限りません。

 

「今までやったことがない」

 

それも事実。

 

でも、

 

「だからこれからもやらない」

 

とは限りません。

 

過去は、自分について知るための大切な情報です。

 

でも、

 

過去は、未来の自分についての決定書ではありません。

 

 

 

 

 

 

自分を知りながら、自分を固定しない


 

結局、最後はまた自分のところへ戻ってきました。

 

私は何が好き?

 

私は今、何に興味がある?

 

私はこれをまだやりたい?

 

もう十分?

 

ちょっと休みたい?

 

またやってみたい?

 

その都度、自分に聞いてみる。

 

昨日と答えが違ってもいい。

 

一年前と違ってもいい。

 

途中でやめてもいい。

 

また始めてもいい。

 

新しいことに夢中になってもいい。

 

自分を知る。

でも、自分を決めつけない。

 

自分を理解する。

 

でも、自分を型にはめない。

 

自分を肯定する。

 

でも、その肯定さえ「こうでなければならない」という義務にしない。

 

そして、

 

「これ、やってみたい!」

 

と思うものが現れたら、

 

過去の自分に審査してもらわずに、とりあえずやってみる。

 

その先で、

 

まだ自分でも知らなかった自分に出会うかもしれません。

 

自分と仲良くなるということは、

 

「私はこういう人です」

 

と自分を完成させることではなく、

 

変わっていく自分と、その都度また仲良くなっていくこと

 

なのかもしれません。

 

今日の私は、今日の私。

 

明日はまた、少し違う私かもしれない。

 

それを楽しみながら生きていけたら、人生にはまだまだ、自分でも知らない自分と出会える余白がたくさん残っているのだと思います。








魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

 

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから

どうにかしたい悩みのヒーリングセッション



年齢や肩書きではなく、「その人」を見る


 

前回、自分の価値を外側の評価に決めてもらわないことについて書きました。

 

賞を取った。

 

いい学校に入った。

 

仕事で評価された。

 

役職を任された。

 

誰かから褒められた。

 

それらは、それぞれ嬉しい出来事です。

 

喜びは自分の中へ持って帰っていい。

 

でも、

 

他人との順位表まで、自分の内側へ持って帰らなくていい。

 

そんなことを考えていました。

 

すると今度は、「年齢」について思うことが出てきました。

 

そしてさらに考えていくと、これは年齢だけの話ではありませんでした。

 

男性だから。

 

女性だから。

 

○○大学卒だから。

 

この仕事をしているから。

 

○○出身だから。

 

私たちは知らないうちに、いろいろな「属性」を通して人を見ていることがあります。

 

でも、その属性を知ることと、

 

その人を知ることは、本当に同じなのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

年齢は、生まれてきたタイミングの違い


 

私はもともと、人の年齢にあまり興味がありません。

 

年齢って、とてもシンプルに考えれば、

 

生まれてきたタイミングの違い

 

だと思っているからです。

 

誰もが同じように一年ずつ年齢を重ねていく。

 

ただ、そのスタートした時期が違う。

 

それだけなんですよね。

 

もちろん、生きてきた年月が違えば、経験できた時代や時間の長さには違いがあります。

 

でも、

 

「若いから価値が高い」

 

とも思わないし、

 

「長く生きているから人として優れている」

 

とも思いません。

 

年齢は、その人についての一つの情報。

 

それ以上でも、それ以下でもない。

 

私はそんなふうに感じています。

 

 

 

 

 

 

「何歳ですか?」という質問が、私は少し苦手


 

これは私個人の経験ですが、私は出会って間もない人から、

 

「何歳ですか?」

 

と聞かれることがこれまで何度もありました。

 

もちろん、年齢を聞くこと自体が悪いとは思いません。

 

仕事や医療など、年齢という情報が必要な場面もあります。

 

また、単純に年齢が気になるという人もいるでしょう。

 

ただ私自身は、プライベートな場面で年齢を聞かれることを、あまり心地よく感じません。

 

なぜなら、これまでの私自身の経験では、年齢を答えたあと、

 

「えっ、見えない!」

 

「若いね!」

 

「○歳くらいだと思った!」

 

というように、実年齢と見た目年齢を比較する話になることがとても多かったからです。

 

もちろん、その人は褒め言葉として言っているのかもしれません。

 

でも私は、「若く見える」と言われたいわけではありません。

 

だから、それを言われても特別嬉しいとは感じないのです。

 

むしろそこから会話の中心が、

 

「私がどんな人なのか」ではなく、「私は何歳に見えるのか」

 

になってしまうことのほうが、私は少し残念に感じます。

 

 

 

 

 

 

「若く見える」が褒め言葉になるとは限らない


 

「若く見えるね」

 

という言葉を嬉しいと感じる人もいると思います。

 

それなら、素直に喜んでいいと思います。

 

でも、すべての人にとって「若く見えること」が価値なのではありません。

 

これは前回書いた、

 

評価と自己価値を切り離す

 

という話にもつながっています。

 

若く見えると言われた。

 

嬉しいなら、嬉しいでいい。

 

でも、

 

「実年齢より若く見える=価値が高い」

 

「年齢相応に見える=普通」

 

「実年齢より上に見える=価値が低い」

 

という順位表まで、自分の内側へ持ち込む必要はありません。

 

ここでも、

 

喜びは持って帰る。

でも、順位表は持って帰らない。

 

でいいのだと思います。

 

 

 

 

 

 

年齢が分からなくても、会話はできる


 

「年齢が分かったほうが、話題を振りやすい」

 

という考え方もあると思います。

 

でも私は、年齢を知らなくてもいいと思っています。

 

たとえば音楽について話していて、

 

「この曲、知っていますか?」

 

と聞けばいい。

 

「知ってる!」

 

なら、そこから話せばいい。

 

「知らない」

 

なら、それもまた会話になります。

 

若いから昔の音楽を知らないとは限りません。

 

親の影響で昔の曲をたくさん知っている人もいるでしょう。

 

反対に、ある時代を実際に生きていても、その頃流行していたものにまったく興味がなかった人もいます。

 

本も、映画も、アニメも、スポーツも、歴史も同じです。

 

年齢から「知っているはず」「知らないはず」と予測するより、本人に聞けばいい。

 

私はそのほうがシンプルだと思います。

 

 

 

 

 

 

「○歳の人」ではなく、「この人」を知りたい


 

私が人について興味を持つのは、年齢とは少し違うところです。

 

何に興味を持っているんだろう。

 

どんなことを面白いと思うんだろう。

 

これまで、どんな人生を生きてきたんだろう。

 

どんな経験をしてきたんだろう。

 

どんな考え方をするんだろう。

 

何を大切にしているんだろう。

 

どんな感性を持っているんだろう。

 

私は、そういうところに惹かれます。

 

「○歳です」

 

という数字を知っても、その人がどんな人なのかはほとんど分かりません。

 

でも、

 

「こんなことが大好きなんです」

 

という話を聞いたら、その人の世界が少し見えてくる。

 

「昔こんな経験をして、こんなふうに考えるようになったんです」

 

と聞いたら、さらにその人が立体的になってくる。

 

私が知りたいのは、

 

年齢というカテゴリーではなく、その人自身なのだと思います。

 

 

 

 

 

 

これは年齢だけの話ではなかった


 

ここまで考えていて、

 

「あれ? これって年齢だけじゃないな」

 

と思いました。

 

男性だから。

 

女性だから。

 

○○大学卒だから。

 

この職業だから。

 

○○出身だから。

 

そういった属性から、

 

「きっとこういう人だろう」

 

と人物像を作ることがあります。

 

もちろん、属性はその人について知る一つの情報です。

 

でも、

 

属性はその人についての情報であって、その人そのものではありません。

 

たとえば、

 

「○○県出身です」

 

と聞いたとします。

 

そこから、

 

「じゃあ、きっとこういう人ですね」

 

と決めるのではなく、

 

「そこでの暮らしはどうでした?」

 

と聞いてみる。

 

すると、

 

「大好きだった」

 

という人もいれば、

 

「早く出たかった」

 

という人もいるかもしれない。

 

「子どもの頃に引っ越したから、ほとんど覚えていない」

 

という人だっているでしょう。

 

同じ属性を持っていても、その人が経験したことや感じたことは違います。

 

だから私は、

 

属性は会話の入口にはなっても、その人についての結論にはならない

 

と思います。

 

 

 

 

 

 

「男性だから」「女性だから」も同じ


 

性別についても同じです。

 

「男性だから、きっとこう考える」

 

「女性だから、これが好きだろう」

 

と考えるより、

 

「あなたはどう?」

 

と本人を見たほうがいい。

 

男性の中にも、いろいろな人がいる。

 

女性の中にも、いろいろな人がいる。

 

同じ年齢でも違う。

 

同じ学校を出ていても違う。

 

同じ仕事をしていても違う。

 

同じ地域で育っていても違う。

 

人は、それほど単純ではありません。

 

だからこそ面白いのだと思います。

 

 

 

 

 

 

カテゴリーから人を見るのではなく、その人からその人を知る


 

属性を先に置いて、

 

「この人は○○だから、きっとこうだ」

 

と考える。

 

これは、

 

カテゴリーから、その人を見ること

 

だと思います。

 

でも私は、

 

「この人は何が好きなんだろう?」

 

「どんなことを考えるんだろう?」

 

「どんなところで笑うんだろう?」

 

「どんなことに心を動かされるんだろう?」

 

と、その人とのやり取りの中で知っていきたい。

 

これは、

 

その人から、その人を知っていくこと

 

なのだと思います。

 

すると、

 

「えっ、そんなことが好きなんだ!」

 

「そんな経験していたんだ!」

 

「そんなふうに考えるんだ!」

 

という意外なものがたくさん出てくる。

 

私は、そこが人と関わる面白さだと思います。

 

 

 

 

 

 

自分にも、同じことをしなくていい


 

そしてこれは、他人を見るときだけの話ではありません。

 

自分自身についても同じです。

 

「私はもう○歳だから」

 

「女性だから」

 

「この仕事をしているから」

 

「この経歴だから」

 

と、カテゴリーから自分を見る必要もない。

 

「○歳の私は何をすべきか」

 

ではなく、

 

「今の私は何をしたい?」

 

と自分に聞けばいい。

 

「この年齢なら、こういう服を着るべき」

 

ではなく、

 

「今の私は、何を着たい?」

 

「この年齢なら、もう遅い」

 

ではなく、

 

「私は今、それをやってみたい?」

 

と聞いてみる。

 

年齢や性別や肩書きが、自分の人生の答えを持っているわけではありません。

 

答えを持っているのは、自分自身です。

 

 

 

 

 

 

他人の物差しで自分を測らない。そして自分の物差しで他人を決めない


 

前回、

 

外側の世界の物差しを、自分の内側へ持ち込まなくていい

 

ということを書きました。

 

今回考えてみて、それにはもう一つの方向があることに気づきました。

 

自分を他人の物差しで測らない。

 

そして同時に、

 

自分が持っている物差しで、他人を決めつけない。

 

自分をカテゴリーに押し込めない。

 

相手もカテゴリーに押し込めない。

 

「○歳の人」ではなく、この人。

 

「男性」「女性」ではなく、この人。

 

「○○大学卒の人」ではなく、この人。

 

「○○という仕事をしている人」ではなく、この人。

 

もちろん属性は、その人の一部分として存在しています。

 

でも、その一部分だけで、その人全部を知ったことにはならない。

 

人はもっと複雑で、もっと意外で、もっと一人ひとり違っています。

 

だから私は、

 

「この人は、どんな人なんだろう?」

 

というところから人を見ていたいと思います。

 

 

 

 

 

 

人を、一つの物差しで測らない


 

嫉妬について考えたことから始まり、

 

人との比較、

 

恋愛、

 

「選ばれる」という感覚、

 

社会からの評価、

 

学歴や肩書き、

 

自己価値、

 

そして年齢や性別などの属性へと、話がつながってきました。

 

一見すると、全部違う話のように見えます。

 

でも、その根っこには同じものがあるように思います。

 

それは、

 

人を、一つの物差しで測らないこと。

 

誰かと比べて、自分の価値を決めない。

 

社会からの評価で、自分の価値を決めない。

 

年齢や肩書きで、自分を決めない。

 

そして同じように、

 

誰かの年齢や性別、学歴、職業、出身地だけで、その人を決めない。

 

外側にある情報は、情報として受け取る。

 

でも、

 

「私は誰なのか」

「この人はどんな人なのか」

 

というところまで、外側の物差しに決めてもらわない。

 

自分については、自分自身とつながりながら知っていく。

 

誰かについては、その人自身と関わりながら知っていく。

 

そうやって一人ひとりを見ていったら、

 

「○歳だから」

 

「男性だから」

 

「女性だから」

 

「○○出身だから」

 

というカテゴリーの向こう側に、

 

その人にしかない一つの世界

 

が見えてくるのかもしれません。

 

私は、その世界のほうに興味があります。








魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

 

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから

どうにかしたい悩みのヒーリングセッション


自分の価値を、外側の世界に決めてもらわない


 

恋愛について考えていたことから、話が思いがけず「自己価値」というところまで広がっていきました。

 

たとえば、好きな人が自分ではなく別の人を好きになったとき、

 

「私は選ばれなかった」

 

「私には魅力がなかったんだ」

 

「もう一人の人のほうが、私より素敵だったんだ」

 

と感じることがあります。

 

でも、本当にそうなのでしょうか。

 

私は今、そうは思いません。

 

相手が別の人を好きになったとしても、それは、

 

「私とその人を比べて、その人のほうが人間として優れていた」

 

ということではないと思うからです。

 

ただ、その人の心がそちらへ動いた。

 

相手が、自分の人生の中で一つの選択をした。

 

それだけのこともあります。

 

私と誰かは、そもそも比較対象ではありません。

 

そして相手の選択によって、私自身の価値が上がったり下がったりするわけでもありません。

 

そんなことを考えていたら、これは恋愛だけの話ではないことに気づきました。

 

 

 

 

 

 

私たちは、小さい頃から「評価」の世界にいる


 

考えてみると、私たちは子どもの頃から、たくさんの評価に囲まれて生きています。

 

運動会では順位がつく。

 

テストでは点数がつく。

 

コンクールでは賞が決まる。

 

大会では優勝者が決まる。

 

受験では合否が出る。

 

そして、

 

「あの高校に合格した。すごいね」

 

「あの大学に行った。すごいね」

 

と言われる。

 

社会に出れば、

 

「あの会社に勤めている」

 

「こんな役職についている」

 

「これくらい収入がある」

 

「こんな資格を持っている」

 

「こんな実績がある」

 

というものが、その人を見る一つの基準になることもあります。

 

もちろん、それらが悪いわけではありません。

 

大会で優勝することも素晴らしい。

 

行きたかった学校に合格することも嬉しい。

 

努力して資格を取ることも素敵なこと。

 

仕事で評価されたり、役職を任されたりすることも、その人が積み重ねてきたものの一つでしょう。

 

でも、ここで一つ、とても大切なことがあると思います。

 

それは、

 

「評価」と「自己価値」は別のものだということ。

 

 

 

 

 

 

「すごいことをした」と「価値のある人」は同じではない


 

100メートル走で1位になった。

 

それは、

 

「そのレースで一番速かった」

 

という結果です。

 

難関大学に合格した。

 

それは、

 

「その大学の入学試験に合格した」

 

という結果です。

 

仕事で昇進した。

 

それは、

 

「その組織の中で、その役割を任された」

 

ということです。

 

どれも素晴らしいことです。

 

でも、

 

「だから、この人は人間として価値が高い」

 

とはならないと思うのです。

 

「すごいことをした」

 

と、

 

「人間として価値が高い」

 

は、別の話です。

 

ところが、ここが一緒になると、

 

「いい結果を出した私は価値がある」

 

となります。

 

そして、その裏側には必ず、

 

「結果を出せない私は価値がない」

 

という考え方が生まれます。

 

評価されたら自分の価値が上がる。

 

評価されなかったら自分の価値が下がる。

 

そんなふうに、自分の価値が外側の出来事によって上がったり下がったりするものになってしまいます。

 

 

 

 

 

 

比較の世界では、下にいても上にいても安心できない


 

他人と比べて、

 

「あの人より私は劣っている」

 

と思えば苦しくなります。

 

でも逆に、

 

「私はあの人より優れている」

 

と思えれば、ずっと安心できるのでしょうか。

 

私は、必ずしもそうではないと思います。

 

今度は、

 

「この位置を失いたくない」

 

「抜かれたくない」

 

「次も結果を出さなければ」

 

「これからも、すごい人でいなければ」

 

という不安が生まれることがあります。

 

比較によって自分の価値を確認する世界では、

 

下にいても苦しい。

上にいても、その場所を失うことが怖い。

 

そうなると、最初は好きで始めたことだったのに、

 

「評価され続けるため」

 

「負けないため」

 

「すごい人だと思われ続けるため」

 

に続けるようになることもあるかもしれません。

 

そして気づいたら、本来自分が進みたかった方向とは違うところへ進んでいる。

 

自分自身の価値観よりも、外側の評価を基準に人生を選ぶようになっている。

 

そんなこともあるように思います。

 

 

 

 

 

 

外の世界には順位があってもいい


 

だからといって私は、競争や評価をなくしたほうがいいとは思いません。

 

外の世界には、順位があってもいい。

 

大会で競ってもいい。

 

テストで点数がついてもいい。

 

仕事で評価されてもいい。

 

賞をもらったら、

 

「やったー!」

 

と喜んでいい。

 

褒められたら、

 

「嬉しい!ありがとう」

 

と受け取っていい。

 

私は、その喜びまで手放す必要はないと思っています。

 

大切なのは、

 

外側の評価を、そのまま自分自身の価値にしないこと。

 

なのだと思います。

 

外で賞をもらったら、喜びは自分の中へ持って帰る。

 

でも、

 

順位表まで自分の内側へ持ち込まなくていい。

 

 

 

 

 

 

肩書きは、自分そのものではない


 

学校名も同じです。

 

会社名も同じ。

 

役職も同じ。

 

資格も、収入も、実績も同じです。

 

それらは、その人についての一つの情報です。

 

でも、その人そのものではありません。

 

「私は部長です」

 

というより、

 

「私は今、この会社で部長という役割を担っています」

 

と考えると、少し違って見えます。

 

まず「私」がいる。

 

その私が、今、一つの役割を担っている。

 

役職が自分を作っているのではなく、

 

自分という人間の人生の中に、一つの役職がある。

 

学校も仕事も資格も実績も同じです。

 

全部、自分の人生の一部分。

 

それらを全部集めたものが、自分の価値なのではありません。

 

 

 

 

 

 

「人の役に立つこと」さえ、自己価値の条件にしなくていい


 

そして、もう一つ気づいたことがあります。

 

それは、

 

「人の役に立つこと」

 

についてです。

 

人の役に立てたら嬉しい。

 

誰かに喜んでもらえたら嬉しい。

 

「ありがとう」と言われたら嬉しい。

 

それは、とても自然なことだと思います。

 

でも、

 

「人の役に立てる私は価値がある」

 

となると、その裏側には、

 

「人の役に立てない私は価値がない」

 

ができてしまいます。

 

仕事をしていないとき。

 

疲れて何もできないとき。

 

誰かから必要とされている実感がないとき。

 

そんなとき、自分自身の価値までなくなったように感じてしまう。

 

でも、

 

「今日は誰かの役に立った」

 

ということと、

 

「だから今日は私に価値がある」

 

ということは別です。

 

誰かの役に立つことには意味がある。

 

でも、それを自分自身の価値を成立させる条件にしなくてもいいのだと思います。

 

 

 

 

 

 

自分の価値に条件をつけない


 

ここまで考えてきて、私は一つのところへたどり着きました。

 

自分の価値に、条件をつけなくてもいい。

 

選ばれたから価値がある。

 

愛されたから価値がある。

 

評価されたから価値がある。

 

賞を取ったから価値がある。

 

有名な学校を出たから価値がある。

 

立派な肩書きがあるから価値がある。

 

たくさん稼いでいるから価値がある。

 

誰かの役に立っているから価値がある。

 

もし、それらが自分の価値を成立させる条件なら、その条件を失った瞬間、自分の価値まで失うことになります。

 

でも、本当はそうではないと思うのです。

 

賞を取ったら嬉しい。

 

恋人から愛されたら嬉しい。

 

仕事で評価されたら嬉しい。

 

誰かの役に立てたら嬉しい。

 

でも、

 

嬉しいことと、自分自身の価値は別。

 

評価と自己価値を切り離す。

 

それだけでも、ずいぶん生き方が変わるような気がします。

 

 

 

 

 

 

比較するなら、過去の自分。でも競争しなくてもいい


 

もし何かと比べるのなら、私は他人ではなく、過去の自分を見たいと思います。

 

でもそれも、

 

「昨日の自分より優れなければ」

 

という競争ではありません。

 

「以前は、こんなことで悩んでいたな」

 

「以前はこう考えていたけれど、今はこんなふうに感じるんだな」

 

「私、ずいぶん変わったな」

 

そんなふうに、自分が歩いてきた道を見る。

 

昨日の自分に勝つ必要もない。

 

ただ、自分の変化を知る。

 

それは比較というより、

 

自分自身の人生を振り返ること

 

に近いのだと思います。

 

 

 

 

 

 

自分の内側に、順位表を持ち込まない


 

外の世界には、いろいろな物差しがあります。

 

学校の物差し。

 

会社の物差し。

 

スポーツの物差し。

 

社会の物差し。

 

そして、一人ひとりが持っている物差し。

 

それらは、それぞれの場面では必要なこともあります。

 

でも私は、

 

自分の内側にまで、その順位表を持ち込まなくていい

 

と思っています。

 

誰かが私より高く評価されたからといって、私の価値が減るわけではない。

 

誰かが私より多く稼いでいても、私の価値が減るわけではない。

 

誰かが恋愛で別の人に心を惹かれたとしても、私の価値が減るわけではない。

 

誰かが私を評価しなかったとしても、私自身がなくなるわけではない。

 

外側の世界では、評価されてもいい。

 

褒められてもいい。

 

競争してもいい。

 

成功してもいい。

 

それを思いきり喜んでもいい。

 

でも、

 

それらに「私の価値を決める権利」まで渡さなくていい。

 

自分の内側は、自分と誰かを競わせる場所ではなく、

 

自分自身とつながる場所。

 

「私はどう感じている?」

 

「私は何を大切にしたい?」

 

「私はどう生きたい?」

 

「私は何を選びたい?」

 

そこへ戻ってくる。

 

自分の価値を外側に探し続けるのではなく、自分自身との関係の中で感じていく。

 

それが、自分と仲良くなること。

 

そして、自分自身を信頼して生きることにもつながっていくのだと思います。

 

評価は評価として受け取る。

結果は結果として受け取る。

肩書きは肩書きとして持つ。

 

でも、

 

自分の価値は、それらとは別のところに置いておく。

 

外の世界の順位表を、自分の内側まで持ち込まない。

 

そうすることで、私たちはもっと自由に、自分自身の人生を選んでいけるのかもしれません。








魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから

どうにかしたい悩みのヒーリングセッション




私は「選ばれる人」ではなく、自分の人生を選ぶ人


 

恋愛について話していて、私はある言葉に違和感を覚えました。

 

それは、

 

「選ばれなかった」

 

という言葉です。

 

たとえば、好きな人の気持ちが自分から離れて、別の人を好きになったとします。

 

そんなとき、

 

「あの人ではなく、私は選ばれなかった」

 

と考えることがあります。

 

以前の私なら、そんな捉え方をしたこともあったと思います。

 

でも今の私は、そうは思いません。

 

相手が別の人を好きになったとしても、

 

「私は選ばれなかった」

 

とは感じないのです。

 

相手はただ、自分の人生の中で違う選択をした。

 

私には、それくらいの感覚なのです。

 

 

 

 

 

 

恋愛は、誰かと誰かの優劣を決めるものではない

 

 

人を好きになることは、採点ではありません。

 

「こちらは80点」

 

「こちらは90点」

 

「だから90点の人を選びました」

 

というものではないと思います。

 

私ともう一人の誰かは、そもそも比較対象ではありません。

 

外見も違う。

 

性格も違う。

 

価値観も違う。

 

経験してきた人生も違う。

 

同じ物差しの上に並べて、

 

「どちらが優れているか」

 

と決めるようなものではないと思うのです。

 

ただ、その人の心がどちらに惹かれたのか。

 

それだけのこともあります。

 

だから、相手の気持ちが別の人へ動いたとしても、

 

「あの人のほうが私より優れていた」

 

とは思いません。

 

ただ、

 

相手の気持ちが動いた。

 

そして私は、それを悲しいと思う。

 

それでいいのだと思います。

 

 

 

 

 

 

悲しむことと、自分の価値を疑うことは別


 

もちろん、好きだった人との関係が終わったら、私は悲しいと思います。

 

きっと泣くこともあるでしょう。

 

「残念だな」

 

「もっと一緒にいたかったな」

 

と思うこともあると思います。

 

人間ですから。

 

でも、その悲しみに、

 

「私は選ばれなかった」

 

「私には何かが足りなかった」

 

「あの人のほうが私より魅力的だった」

 

という話まで加える必要はないと思っています。

 

関係を失った悲しみと、自分自身の価値は別のことです。

 

ただでさえ別れは悲しいのに、

 

「私は誰かに負けた」

 

という物語まで自分で作ったら、苦しみをもう一つ増やすことになります。

 

私は、それはもういらないなと思うのです。

 

 

 

 

 

 

私は「選ばれる存在」ではなく「選ぶ存在」


 

今の私は、

 

「私は選ばれる存在ではなく、私が選ぶ存在」

 

という感覚を持っています。

 

これは、

 

「私のほうが偉い」

 

という意味ではありません。

 

相手にも、自分の人生を選ぶ権利があります。

 

そして私にも、自分の人生を選ぶ権利があります。

 

相手は相手の人生の主体。

 

私は私の人生の主体。

 

相手が、

 

「私は違う道へ行く」

 

と決めたなら、それは相手の選択です。

 

では私はどうするのか。

 

私は、

 

「わかりました。では私は私の道へ行きます」

 

と、自分の人生を選ぶ。

 

誰かの人生の選択によって、私の人生の決定権まで失われるわけではありません。

 

 

 

 

 

 

だから私は、復縁を望まない


 

これはあくまで私自身の恋愛観ですが、私は復縁を望みません。

 

別れたのには、別れた理由があるからです。

 

以前、私は一度、

 

「ダメなものは、もうダメなんだ」

 

と思ったことがありました。

 

でもその後、

 

「本当にそうなのかな」

 

「もう一度信じてみてもいいんじゃないかな」

 

と思い直した時期もありました。

 

もう一度、信じてみた。

 

その経験をしたうえで、私は改めて、

 

「やっぱり、ダメなものはダメなんだな」

 

という自分なりの答えにたどり着きました。

 

だから今は、終わった関係について、

 

「もう一度チャンスを」

 

とは思いません。

 

これは「復縁はうまくいかない」と言いたいわけではありません。

 

離れている間にお互いが変化して、再会したときには以前とは違う二人になっていて、もう一度一緒に生きることを選ぶ。

 

そんな恋愛もあるでしょう。

 

それを望む人がいてもいい。

 

でも、

 

私はそれを選ばない。

 

ただそれだけです。

 

 

 

 

 

 

相手が戻りたいと思うことは、相手の課題


 

もし、相手が別の人を好きになって別れたとします。

 

そして時間が経って、

 

「やっぱり戻りたい」

 

と思ったとします。

 

それは、相手の気持ちです。

 

相手が後悔したこと。

 

考えが変わったこと。

 

もう一度やり直したいと思ったこと。

 

それは相手の人生の中で起きていることです。

 

だから、それによって私が、

 

「もう一度チャンスを与えるべきなのかな」

 

と考える必要はないと思っています。

 

相手には、

 

「戻りたい」

 

と思う自由がある。

 

そして私には、

 

「私は戻りません」

 

と選ぶ自由がある。

 

相手の課題まで、私が引き受けなくていい。

 

 

 

 

 

 

誰かに比較されたとしても、その物差しはその人のもの


 

もちろん現実には、条件によって人を比較して恋愛相手を決める人もいると思います。

 

「こちらの人のほうが収入が多い」

 

「こちらの人のほうが社会的地位が高い」

 

「こちらの人のほうが自分の理想の条件に近い」

 

もし本人が実際にそう考えて決めたのなら、その人の中では比較が行われています。

 

でも、それでも私は思います。

 

それは、その人の物差しです。

 

その人が、

 

「私は恋愛相手を選ぶとき、収入を大切にする」

 

と決めているだけ。

 

それによって、

 

「収入の高い人のほうが、人間として価値が高い」

 

という事実が生まれたわけではありません。

 

だから、誰かが私を自分の物差しで比較したとしても、

 

その物差しを受け取って、自分まで自分を採点しなくていい。

 

「ああ、この人はそういうものを大切にして相手を選ぶ人なんだな」

 

それは、その人について知る一つの情報です。

 

でも私は、

 

「では、その物差しで私は何点だったんだろう?」

 

と考えなくていい。

 

 

 

 

 

 

自己信頼とは、自分の選択を自分で信頼すること


 

こうして考えていくと、結局また「自己信頼」に戻ってきました。

 

誰かから愛されることで、自分の価値を確認するのではない。

 

誰かに選ばれることで、自分の価値を証明するのでもない。

 

自分自身が、

 

「私はどう感じている?」

 

「私はどうしたい?」

 

「私は何を選ぶ?」

 

と、自分に聞く。

 

そして、自分で出した答えを自分で大切にする。

 

私は一度、

 

「もう一度信じてみよう」

 

という道も選びました。

 

だからこそ今、

 

「私はもう戻らない」

 

という自分の答えも知っています。

 

どちらかが正しいのではありません。

 

自分で経験して、自分で感じて、自分で答えを出した。

 

だから私は、その答えを信頼しています。

 

 

 

 

 

 

悲しくても、自分の人生の操縦席には自分がいる

 

 

恋愛が終わったら、悲しんでいい。

 

泣いてもいい。

 

寂しくてもいい。

 

「あの時間、楽しかったな」

 

と思い出してもいい。

 

でも、

 

悲しむことと、自分の人生の主導権を失うことは別です。

 

相手が違う人生を選んだなら、相手は相手の道へ行く。

 

私は私の道へ行く。

 

誰かが私を選んでくれるのを待つのではなく、

 

私は、自分の人生を自分で選んでいく。

 

そしてこれは、恋愛だけの話ではないように思います。

 

誰かが輝いて見えたときも。

 

嫉妬したときも。

 

誰かから評価されたときも。

 

誰かとの関係が終わったときも。

 

最後に戻ってくる場所は、

 

「私はどうしたい?」

 

という自分自身とのつながりです。

 

人を好きになる。

 

焼きもちを焼く。

 

嫉妬する。

 

別れたら泣く。

 

それでもまた、自分のところへ戻ってくる。

 

自己信頼とは、何も失わないための力ではなく、

 

何かを失うことがあっても、自分自身のところへ帰ってこられる力

 

なのかもしれません。

 

そして私はこれからも、自分の人生の操縦席に座って、
自分で自分の人生を選んでいきたいと思います。






魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

 

 

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どうにかしたい悩みのヒーリングセッション



恋愛の嫉妬は、愛情の深さなのだろうか


 

恋愛について考えていて、ふと「嫉妬」について思うことがありました。

 

恋愛には嫉妬がつきもの。

 

好きだから嫉妬する。

 

愛情が深いほど嫉妬する。

 

そんなふうに捉えられることがあります。

 

でも私は最近、

 

本当に「好き=嫉妬」なのだろうか?

 

と思うようになりました。

 

もちろん、好きな人だからこそ心が動くことはあります。

 

好きな人が誰かから好意を寄せられている。

 

誰かと楽しそうに話している。

 

そんな姿を見て、

 

「なんか嫌だな」

「ちょっとムッとする」

 

ということもあるでしょう。

 

でも私の感覚では、それは重たい「嫉妬」というより、かわいらしい「焼きもち」に近いものです。

 

「ちょっと嫌だな」

「私のことも見てよ」

 

そんなふうに少し拗ねる。

 

でも、根底では相手を信頼している。

 

だから少し心が揺れても、またすぐ安心できるところへ戻ってくる。

 

私にとっての焼きもちは、そんな感じです。

 

 

 

 

 

 

嫉妬と焼きもちは、私の中では少し違う


 

これはあくまで私自身の感覚ですが、私は「焼きもち」と「嫉妬」を少し違うものとして感じています。

 

焼きもちは比較的軽いもの。

 

一方、嫉妬には、

 

「誰かに取られてしまうかもしれない」

 

「好きな人が他の人を好きになったらどうしよう」

 

「私ではなく、あの人のところへ行ってしまうかもしれない」

 

という、もう少し重く苦しい感覚があります。

 

そして、ここには「好き」という気持ちだけではなく、

 

二人の関係の中に、どれくらい安心・安全を感じられているのか

 

ということも関係しているのではないかと思いました。

 

 

 

 

 

 

安心できる場所があると、嫉妬から戻ってこられる


 

たとえば、好きな人が誰かと楽しそうに話している。

 

一瞬、

 

「ちょっと嫌だな」

 

と思ったとしても、

 

「でも、この人は私との関係を大切にしてくれている」

 

「私はこの人を信頼している」

 

「私たちの関係は大丈夫」

 

という安心感があれば、ずっとそこに囚われ続けることは少ないように思います。

 

焼きもちを焼いても、また安心へ戻ってくる。

 

一瞬嫉妬しても、すっと消えていく。

 

反対に、二人の関係そのものに安心を感じられなかったらどうでしょう。

 

同じ出来事を見ても、

 

「もしかして、あの人のことが好きなのかな」

 

「私よりあの人のほうがいいのかな」

 

「いつか私から離れていくんじゃないかな」

 

と、どんどん不安が膨らんでいくこともあるかもしれません。

 

だから私は、恋愛における嫉妬を考えるとき、

 

「嫉妬するほど愛している」

 

と単純に捉えるのは、少し違うような気がしています。

 

嫉妬の奥には、ときに、

 

「安心したい」

 

「大切にされていると感じたい」

 

「この関係を失いたくない」

 

という、表からは見えない気持ちがあるのかもしれません。

 

もちろん、嫉妬にはさまざまな要因があるので、必ず何か満たされない思いが隠れているとは限りません。

 

それでも、

 

「私は今、何を怖いと感じているんだろう?」

 

と自分に戻ってみることには意味があると思います。

 

 

 

 

 

 

大切なのは、相手への信頼だけではなかった


 

そして、ここまで考えていて、もう一つ大きなことに気づきました。

 

安心できる恋愛に必要なのは、

 

二人の間の信頼だけではない。

 

もう一つ、

 

自分自身への信頼

 

があるのだと思います。

 

相手をどれだけ信頼していても、未来のことまで完全に保証することはできません。

 

人の気持ちは変化することがあります。

 

どれほど好きだったとしても、いつか気持ちが離れる可能性をゼロにすることはできません。

 

もし、

 

「この人が絶対に私から離れない」

 

という保証によってしか安心できないのだとしたら、安心は相手の行動次第になってしまいます。

 

でも、

 

「私は大丈夫」

 

という自分自身への信頼があったらどうでしょう。

 

私は私で大丈夫。

 

相手も相手で大丈夫。

 

今、お互いが一緒にいたいと思っているから、一緒にいる。

 

そして、もし未来に気持ちが変化することがあったとしても、そのときはそのとき。

 

悲しくないわけではありません。

 

きっと悲しいでしょう。

 

泣くことだってあると思います。

 

でも、

 

関係が終わることと、自分自身の価値が失われることは別のことです。






 

安心できる恋愛とは、何も起こらない恋愛ではない


 

そう考えると、安心・安全な恋愛というのは、

 

嫉妬しないことでも、

 

焼きもちを焼かないことでも、

 

絶対に別れないことでもないのかもしれません。

 

人間だから心は動く。

 

好きな人だからこそ、

 

「むぅ」

 

となることだってある。

 

不安になる日だってある。

 

でも、そのたびに、

 

安心できるところへ戻ってこられる。

 

相手への信頼へ戻る。

 

そして、自分自身への信頼へ戻る。

 

だから嫉妬に関係全体を飲み込まれない。

 

私は、そんな恋愛が「安定した恋愛」なのではないかと思います。

 

そして結局ここでも大切になるのは、

 

自分とつながっていること。

自分と仲良くなっていること。

自分自身を信頼していること。

 

なのだと思いました。

 

恋愛だからこそ相手を大切にする。

 

でも同じくらい、自分自身との関係も大切にする。

 

「相手が大丈夫だから私は大丈夫」ではなく、

 

「まず私は大丈夫。そして相手も大丈夫」

 

そんなところから始まる恋愛なら、嫉妬がやってきたとしても、
それは二人の関係を支配するものではなく、
時々やってくる人間らしい心の揺れの一つになるのかもしれません。






魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

 

 

 

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どうにかしたい悩みのヒーリングセッション



嫉妬は、誰かの輝きに心が動いた瞬間なのかもしれない

 

 

最近、ふと「嫉妬」について考えることがありました。

 

恋愛関係の中で生まれる嫉妬もあれば、同性同士で感じる嫉妬もある。

 

自分より才能があるように見える人、活躍している人、魅力的に見える人を見て、

 

「いいな」

「羨ましいな」

 

と感じることもあります。

 

嫉妬というと、あまり良くない感情のように扱われることがあります。

 

でも私は最近、嫉妬ってもう少し違う見方もできるんじゃないかなと思うようになりました。

 

 

 

 

 

 

私たちは、その人の一部分しか見ていない


 

昔、私は誰かに嫉妬したことがありました。

 

その人が持っている才能か何かを見て、「いいな、羨ましいな」と感じていたのだと思います。

 

ところが、その人と話す機会があって、それまで歩んできた人生について本人から聞いたことがありました。

 

表からは見えなかったけれど、いろいろな苦労があったこと。

 

失敗したこと。

 

そこからまた進んできたこと。

 

そういう話を知ったとき、私は少し恥ずかしくなりました。

 

「私は何も知らないで嫉妬していたんだな」と。

 

今となっては、それが誰だったのか、何に嫉妬していたのかさえ忘れてしまいました。

 

でも、そのとき感じたことだけは残っています。

 

考えてみれば、私たちが誰かを見て羨ましいと思うとき、その人の人生すべてを知っているわけではありません。

 

今、目の前に見えている「輝いている部分」を見ているだけかもしれないのです。

 

その場所にたどり着くまで、どんな時間を過ごしてきたのか。

 

何度失敗したのか。

 

何に悩み、何を諦め、それでも何を続けてきたのか。

 

そんなことは、外から見ているだけではわかりません。

 

だからといって、知らずに嫉妬した自分を恥ずかしく思う必要もなかったのだと、今は思います。

 

知らなかったのだから仕方がない。

 

そして嫉妬すること自体も、人間の自然な心の動きの一つなのだと思います。

 

 

 

 

 

 

誰かの輝きは、ときに「いいショック」になる


 

もう一つ思ったことがあります。

 

誰かがものすごく輝いて見えた瞬間って、ちょっとした衝撃がありませんか?

 

「えっ、こんなことができるんだ」

 

「こんな一面があったんだ」

 

「すごい!」

 

予想していなかったものを見せられて、一瞬圧倒される。

 

私はこれを、ある意味で「いいショック」なのではないかと思います。

 

その人が積み重ねてきたものが、表現や作品、仕事、活動などを通してパッと表に現れた瞬間。

 

それを受け取った側の心が大きく揺さぶられる。

 

その最初の衝撃は、もしかすると純粋な感動なのかもしれません。

 

ところが、その次の瞬間、

 

「いいな」

「羨ましい」

「この人にはあるのに、私にはない」

 

という気持ちが出てくる。

 

そこで感動が、羨望や嫉妬へと枝分かれしていくこともあるのかもしれません。

 

「この人にはある。私にはない」

 

嫉妬が生まれたとき、そこには、

 

「この人は、自分にないものを持っている」

 

という感覚があるのかもしれません。

 

でも、そんなとき私は、

 

「私はこの人の何を見て、嫉妬しているんだろう?」

 

と考えてみるようになりました。

 

才能なのか。

 

評価されていることなのか。

 

自由に表現している姿なのか。

 

自信を持っているように見えることなのか。

 

好きなことを思い切りやっている姿なのか。

 

そこを見ていくと、意外な自分が見えてくることがあります。

 

たとえば、素晴らしいダンサーを見て、ものすごく羨ましくなったとします。

 

でも、

 

「じゃあ私は、この人のようなダンサーになりたいの?」

 

と自分に聞いてみたら、

 

「いや、それは別にやりたくない」

 

となるかもしれません。

 

それでも、なぜか目が離せない。

 

だったら、本当に心を動かされたものは「ダンス」ではないのかもしれません。

 

堂々と自分を表現している姿かもしれない。

 

好きなことに夢中になっている姿かもしれない。

 

人目を気にせず、自分の世界を表現している自由さかもしれない。

 

嫉妬の奥を見ていくと、

 

「私、本当はこういうものに惹かれるんだ」

 

という、自分でも気づかなかった願いや価値観が見えてくることがあります。

 

 

 

 

 

 

羨ましい。でも、私はそれをやりたい?


 

最近の私は、人を見て「すごいな」と思っても、その次の瞬間には、

 

「それはそれ」

 

と切り替わることが多くなりました。

 

なぜなら、その人と私は違うからです。

 

経験してきたことも違う。

 

外見も違う。

 

性格も違う。

 

価値観も、考え方も、望んでいる人生も違う。

 

同じことに興味を持っていたとしても、人生そのものを比べることはできません。

 

一人ひとりに物差しがあるとしても、その物差しそのものが違う。

 

だから、そもそも重ならないのです。

 

誰かを見て、

 

「すごいな」

「羨ましいな」

 

と思ったとしても、

 

「じゃあ、私はそれをしたい?」

 

と聞いてみる。

 

すると意外と、

 

「いや、私はやりたくないな」

 

ということもあります。

 

それなら、その人はその人。

 

私は私。

 

「あなた、すごいね」

 

それだけで終わってもいいのです。

 

 

 

 

 

 

嫉妬は、自分を知る入口にもなる


 

嫉妬を感じたからといって、必ず深く分析する必要もないと思います。

 

「あ、今ちょっと羨ましいと思ったな」

 

それだけで通り過ぎてもいい。

 

でも、どうしても気になる。

 

なぜか目が離せない。

 

何度もその人のことを考えてしまう。

 

そんなときには、

 

「私は、この人の何にこんなに心を動かされているんだろう?」

 

と自分に聞いてみるのも面白いと思います。

 

そして、もう一つ。

 

「この人にはあるけれど、私にはない」

 

と思ったその何かは、本当に自分にはないのでしょうか。

 

まだ表に出していないだけかもしれない。

 

まだやったことがないだけかもしれない。

 

その人とは違う形で、すでに自分の中にあるのかもしれない。

 

誰かの輝きに心を大きく動かされた瞬間。

 

それは、その人について何かを感じた瞬間であると同時に、

 

まだ自分でも知らなかった自分自身に出会った瞬間

 

なのかもしれません。

 

そう考えると、嫉妬もそれほど悪いものには見えなくなります。

 

誰かの輝きを見て、心が「うわっ」と動いた。

 

その心の動きから、

 

「私は何に惹かれたんだろう?」

 

と自分の方へ戻ってみる。

 

そして、自分も本当に望んでいることなら、自分なりの形でやってみればいい。

 

望んでいないなら、

 

「素敵だな。すごいな」

 

と、その人の輝きをその人のものとして眺めればいい。

 

誰かの人生を自分の物差しにする必要もないし、自分の人生を誰かの物差しで測る必要もない。

 

その人には、その人の物差しがある。

私には、私の物差しがある。

 

だからこそ誰かの輝きは、自分を小さくするものではなく、

 

「こんな輝き方もあるんだ」

 

と世界を少し広げてくれるものなのかもしれません。






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どうにかしたい悩みのヒーリングセッション




一つの答えで、世界のすべてを説明しなくていい



 

最近、スピリチュアルに関する発信を見ていて、

少し気になることがありました。

 

それは、自分が信じているものや、

自分が扱っているものの素晴らしさを伝えるために、

 

「こちらが本物で、あちらは偽物」

「それは間違っている」

「そんなものは意味がない」

 

というように、ほかの考え方や方法を強く否定する発信です。

 

 

もちろん、「私はこの考え方には賛同しません」と意見を伝えることと、

誰かや何かを否定したり馬鹿にしたりすることは違います。

 

私自身も、スピリチュアルの世界で言われていることに対して、

「それはちょっと違うんじゃないかな」と感じることはあります。

 

だから、疑問を持つことや批判的に考えること自体が悪いとは思いません。

 

 

 

でも私は何かを学ぶとき、

 

「ほかはダメだけれど、これはすごい」

 

という伝え方をされるものを、あまり学びたいとは思わないんですよね。

 

なぜなら、本当にそのものに魅力があるのなら、

ほかを下げなくても、その魅力を伝えることはできると思うからです。

 

 

 

 

 

 

「正解」は、本当に一つなのだろうか


 

そんなことを考えるきっかけの一つになったのが、誕生石についての話でした。

 

誕生石は国によって違いがあります。

 

そして、そもそも誕生石そのものも、絶対的な自然法則ではありません。

 

「この月に生まれた人は、絶対にこの石を持たなければならない」というものでもありませんよね。

 

誕生石を知って、

 

「自分の誕生月の石だから、なんだか親近感がある」

 

と思うのも素敵です。

 

でも、自分の誕生石より別の石のほうが好きなら、好きな石を選んでもいい。

 

それくらい自由でいいと私は思います。

 

ところが、一つの体系を「これが正しい」と決めた瞬間、そこから外れたものを「間違い」「偽物」としたくなることがあります。

 

これは誕生石だけの話ではありません。

 

考えているうちに、以前から私がスピリチュアルについて感じていた、

もっと大きな疑問につながっていきました。

 

 

 

 

 

 

「原因はすべて自分」という考え方に苦しくなった

 

 

以前の私は、

 

「自分に起こる出来事の原因は自分にある」

 

という考え方を、かなり広い範囲に当てはめていました。

 

自分の内側を見つめたり、自分にできることを考えたりするためには、役立つこともある考え方だと思います。

 

でも、あるとき疑問を感じました。

 

本当に、すべての出来事の原因を自分にする必要があるのだろうか?

 

人と人との間で起きる出来事には、自分だけではなく相手がいます。

 

相手にも意思があります。

相手にも選択があります。

相手にもその人自身の人生があります。

 

それなのに、そこで起きたことまで全部、

 

「私が引き寄せた」

「私の思考が作った」

「私の内側に原因があった」

 

と考える必要があるのでしょうか。

 

私は、そうではないと思うようになりました。

 

自分が原因ではない出来事もある。

 

でも、それは人生の主導権を失うこととは違います。

 

出来事の原因をすべて自分にしなくても、その後どう生きるかは自分で選べる。

 

このことに気づいたとき、私はとてもホッとしました。

 

 

 

 

 

 

そして思い出した「前世とカルマ」への疑問


 

今回いろいろ考えているうちに、以前から心のどこかに残っていた疑問を思い出しました。

 

それは、前世やカルマについてです。

 

スピリチュアルの世界ではときどき、

 

「今世で起きる苦しい出来事には、前世からのカルマが関係している」

 

というような説明を耳にすることがあります。

 

でも私は、以前からここに引っかかりを感じていました。

 

たとえば、小さな子どもが事故で命を落としたとします。

 

その出来事に対して、

 

「前世で悪いことをしたから、今世でその罪を償っている」

 

と説明したらどうでしょう。

 

私は、とても苦しくなります。

 

そもそも前世について、私は「絶対にある」と証明することもできなければ、「絶対にない」と証明することもできません。

 

わからないものは、わからない。

 

それでいいのではないでしょうか。

 

わからない出来事に対して、無理にスピリチュアルな説明をつけなくてもいい。

 

特に、人の命や深い苦しみに関わる出来事にまで、

一つの理論を当てはめて「だからこうなった」と説明する必要はないと、今の私は思っています。

 

 

 

 

 

 

一つの考え方を「万能の法則」にしない


 

ここまで考えて、ようやく一つにつながりました。

 

私が苦しくなっていたのは、スピリチュアルそのものではなかったのかもしれません。

 

一つの理論や仮説、考え方を、人生で起こるすべての出来事に適用しようとしていたこと。

 

そこに苦しさがあったのだと思います。

 

一つの考え方が、ある場面では自分を助けてくれることがあります。

 

でも、別の場面に同じものを当てはめた途端、自分や誰かを苦しめることもあります。

 

だったら、そこで一度立ち止まってもいい。

 

「この考え方は、ここにも本当に当てはまるのかな?」

 

「これを信じることで、私は生きやすくなっているかな?」

 

「自分や誰かを必要以上に責めることになっていないかな?」

 

そうやって、自分で考えていいのだと思います。

 

 

 

 

 

 

スピリチュアルを全部信じなくてもいいし、全部捨てなくてもいい


 

私はスピリチュアルが好きです。

 

でも、スピリチュアルで言われていることを、全部信じているわけではありません。

 

私にとってスピリチュアルは、

自分自身や人生を縛るためのものではなく、

より良く、より自分らしく生きるために役立てるものです。

 

だから私は、その中から自分にとってプラスになるものを選びたい。

 

自分だけではなく、誰かに伝えるのであれば、その人にとってもプラスになる可能性のあるものを伝えたい。

 

そして、その人自身が、

 

「私はこの考え方が好き」

「これは今の私には必要ない」

 

と選べる余白も残しておきたいと思っています。

 

何かを信じることと、それを絶対的な真実にすることは違います。

 

何かに疑問を持つことと、それを信じている人を馬鹿にすることも違います。

 

「私はこれを選びます」

 

それだけで、本当は十分なのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

一つの答えで、世界を塗りつぶさない

 

 

世の中には、わからないことがたくさんあります。

 

なぜこんなことが起きたのだろう。

 

なぜ私だったのだろう。

 

なぜあの人だったのだろう。

 

考えても、答えの出ないことがあります。

 

そんなとき、人は答えが欲しくなるのかもしれません。

 

「カルマだから」

「引き寄せたから」

「思考が現実化したから」

 

そう説明できれば、一瞬、世界が理解できたような気持ちになることもあります。

 

でも、答えがないことを、答えがないままにしておくこともできる。

 

「確認できないことは、私にはわからない」

 

それも一つの誠実な態度だと思います。

 

そして、今の自分に役立つ考え方は取り入れて、苦しくなる考え方は手放してもいい。

 

一度取り入れた考え方を、途中でやめたっていい。

 

「前は信じていたけれど、今の私は違うと思う」

 

それだっていい。

 

一つの理論で、世界のすべてを説明しなくていい。

 

一つの答えで、世界全部を塗りつぶさなくていい。

 

何を信じるかさえ、自分で選んでいい。

 

私は最近、そう思えるようになったことで、スピリチュアルから離れたというよりも、むしろ以前より自由にスピリチュアルと付き合えるようになった気がしています。

 

自分を怖がらせるためではなく。

自分を縛るためでもなく。

誰かを裁くためでもなく。

 

自分と仲良く、自分の人生を生きるために。

 

私はこれからも、自分で感じ、自分で考え、自分で選びながら、必要なものだけを大切にしていきたいと思います。







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自分の世界は、自分で選んでいい――「一人一宇宙」という自由

 

 

前回、「怖いときは、決めなくていい」ということについて書きました。

 

何か新しい考え方を知ったとき、すぐに信じなくてもいい。

 

すぐに否定しなくてもいい。

 

怖いと感じたなら、一度立ち止まって、

 

「私はこれをどう感じている?」

 

「私はこの考え方と一緒に生きたい?」

 

と、自分のところへ戻ってきてもいい。

 

そう考えたとき、私はなんだか、自分の人生の主導権が自分に戻ってきたような感覚がありました。

 

自分の人生の操縦席に、もう一度自分が座ったような感覚です。

 

そして、そこからもう一つ気づいたことがあります。

 

そもそも私たちは、誰もがすでに、自分なりの「世界」を作りながら生きているのではないか。

 

ということです。






 

同じ世界にいても、見えている世界は少しずつ違う


 

私たちは、同じ世界で生きています。

 

けれど、一人ひとり経験してきたことは違います。

 

育ってきた環境も違う。

 

出会った人も違う。

 

嬉しかったことも、傷ついたことも違う。

 

何に安心を感じるかも違えば、何を怖いと思うかも違う。

 

好きなものも、大切にしたいものも違います。

 

同じ出来事を経験しても、感じ方が違うことがあります。

 

同じ本を読んでも、心に残るところは違います。

 

同じ人に会っても、

 

「素敵な人だな」

 

と思う人もいれば、

 

「私はちょっと合わないな」

 

と思う人もいる。

 

そう考えると私たちは、生まれてから経験したこと、知ったこと、感じたこと、考えたことを材料にしながら、

 

「人間って、こういうもの」

 

「人生って、こういうもの」

 

「幸せって、こういうもの」

 

「私は、こういう人」

 

という、自分なりの世界の見取り図を少しずつ作っているのだと思います。

 

つまり、

 

私たちはもともと、自分なりの世界観を持って生きている。






 

外から入ってきた情報も、自分の世界を作る材料になる


 

そして、その世界の中には、外からさまざまな情報が入ってきます。

 

本。

 

動画。

 

学校で教わったこと。

 

親から言われたこと。

 

先生から教わったこと。

 

尊敬している人の言葉。

 

スピリチュアルな教え。

 

心理学や哲学。

 

社会の常識。

 

それらを知るたびに、

 

「なるほど、世界ってそういうものなのか」

 

「人間ってこういうものなんだ」

 

と、自分の世界観に少しずつ加えていきます。

 

でも、ここで一つ気をつけたいことがあります。






 

「その人の世界観」が「世界の絶対的な法則」に変わるとき


 

たとえば、有名な人が本の中で、

 

「思考が現実を作ります」

 

「あなたの波動に合った現実が引き寄せられます」

 

「起きる出来事の原因は自分にあります」

 

と書いていたとします。

 

本になっている。

 

たくさんの人が読んでいる。

 

有名な人が言っている。

 

自信を持って語られている。

 

そうすると、その言葉はとても真実味を帯びて感じられることがあります。

 

そして、いつの間にか、

 

「この人は、こういうふうに世界を見ている」

 

という一つの考え方が、

 

「世界は、本当にこういう仕組みで動いている」

 

に変わることがあります。

 

もちろん、本当に事実として確認できることもあります。

 

そういうものについては、根拠を確認すればいい。

 

でも、科学的に確認できないことや、哲学、価値観、スピリチュアルな世界観については、

 

「これは一つの世界の見方でもあるんだな」

 

と、少し距離を置いて眺めてもいいのだと思います。






 

思想を「全部入り」で採用しなくてもいい


 

そして、ここで私は、とても自由なことに気づきました。

 

一つの思想を、全部そのまま採用しなくてもいい。

 

たとえば「引き寄せの法則」の中に、

 

「自分が望んでいる方向を意識してみよう」

 

「自分が本当に望んでいることに目を向けよう」

 

「希望を持って、その方向へ動いてみよう」

 

という考え方があったとします。

 

私はそこには魅力を感じる。

 

だったら、そこは自分の人生に取り入れてもいい。

 

でも、

 

「ネガティブなことを考えたら、ネガティブな現実を引き寄せる」

 

という部分は、自分を怖がらせ、自分の思考を監視することにつながる。

 

だったら、

 

「そこは私は採用しない」

 

でもいい。

 

「原因は自分」という考え方についても同じです。

 

何かが起きたとき、

 

「私にもできることがあったかな?」

 

「私はここから何を変えられるかな?」

 

と自分を振り返ることには意味を感じる。

 

でも、

 

「自分に起きたことは、すべて自分が原因」

 

というところまでは採用しない。

 

それでもいい。

 

思想を、パッケージごと受け取らなくてもいいのです。

 

自分にとって大切なところを受け取って、

 

違和感のあるところは保留にして、

 

必要ないと思ったものは置いていく。

 

そんな自由があっていいと思います。






 

それは「都合よく信じる」ということなのだろうか?

 

 

もしかすると、

 

「そんなふうに好きなところだけ取るのは、都合がよすぎるのでは?」

 

と思う人もいるかもしれません。

 

でも、私は必ずしもそうは思いません。

 

そもそも私たちは、これまでだってそうやって自分の世界観を作ってきたからです。

 

たくさんの人と出会い、

 

たくさんのことを経験し、

 

たくさんの情報に触れ、

 

「これは好き」

 

「これは違うと思う」

 

「以前はこう思っていたけれど、今は違う」

 

と変化しながら生きています。

 

だったら、スピリチュアルな考え方だけを特別扱いして、

 

「一度受け入れたら、全部信じ続けなければならない」

 

と考える必要もないのではないでしょうか。

 

自分の経験と照らし合わせながら、

 

今の自分が何を大切にしたいのかを選んでいく。

 

それも、自分の世界観を育てるということなのだと思います。






 

自分の世界観を、他人の正解にしなくてもいい


 

そして、自分なりの世界観ができたからといって、それを他の人にも信じてもらう必要はありません。

 

「私は今、こんなふうに世界を見ています」

 

それだけでもいい。

 

相手には相手の人生があります。

 

相手が経験してきたことがあります。

 

相手が大切にしているものがあります。

 

だから、

 

私には私の世界観があり、あなたにはあなたの世界観がある。

 

それでいい。

 

自分の世界観を大切にすることと、他人の世界観を尊重することは、両立できると思います。

 

 

 

 

 

 

「一人一宇宙」と考えてみる


 

私は以前から、「一人一宇宙」という言葉が好きです。

 

もちろん、

 

「一人ひとりが物理的に別の宇宙を作っている」

 

という意味ではありません。

 

これは、私にとっての比喩です。

 

一人ひとり、

 

経験してきたことが違う。

 

感じることが違う。

 

大切なものが違う。

 

世界を見る角度が違う。

 

その人にしかない世界の見え方がある。

 

それを一つの「宇宙」と呼んでみる。

 

そう考えると、私はなんだかとても自由な気持ちになります。

 

 

 

 

 

 

「宇宙の法則に従う」から、「自分の宇宙を育てる」へ


 

以前の私は、

 

「宇宙の法則がこうなら、それに自分を合わせなければ」

 

と思うことがありました。

 

ネガティブにならないようにする。

 

波動を下げないようにする。

 

悪い現実を引き寄せないように、自分の思考を整える。

 

でも今は、少し違います。

 

どこか外側にある「正しい宇宙」に、自分を合わせ続けなくてもいい。

 

それよりも、

 

「私は、どんな世界観と一緒に生きたい?」

 

と自分に聞いてみる。

 

希望を持てるもの。

 

自分自身と仲良くなれるもの。

 

人生が少し豊かに感じられるもの。

 

世界への好奇心が広がるもの。

 

そんなものを、自分の世界に迎え入れていく。

 

そして、

 

「これはもう私には合わないな」

 

と思ったものは、手放してもいい。

 

私は、そのほうが好きです。

 

 

 

 

 

 

世界観は、完成しなくてもいい


 

そして、自分の世界観を完璧に完成させる必要もないと思います。

 

今日、

 

「私はこう思う」

 

と思っていたことを、

 

5年後には、

 

「あれ? 今はもうそう思わないな」

 

と思うかもしれません。

 

それでいい。

 

新しい経験をすれば、新しいことを感じる。

 

新しいことを知れば、考え方が変わる。

 

以前大切だったものが必要なくなることもあれば、昔は分からなかったものが、後になって大切になることもあります。

 

だから、

 

自分の宇宙を完成させるのではなく、自分と一緒に育てていく。

 

そんな感覚でもいいのだと思います。

 

 

 

 

 

 

人生の主導権を、自分に戻す

 

自分の人生の主導権を持つということは、

 

世界で起きるすべてを、自分の思い通りにすることではない。

 

未来を完全にコントロールすることでもない。

 

私は今、

 

何を自分の世界に迎え入れるのか。

何を手放すのか。

何を保留にするのか。

そして、どんな方向へ歩いていきたいのか。

 

それを、自分自身で決められることなのではないかと思っています。

 

誰かの世界観を、そのまま自分の世界にしなくてもいい。

 

有名な人が言ったことも、

 

本に書いてあったことも、

 

スピリチュアルな教えも、

 

一度、自分の前に置いてみる。

 

「私はどう思う?」

 

「私はこれに魅力を感じる?」

 

「これは、今の私の人生を豊かにしてくれる?」

 

そうやって、自分と相談しながら選んでいく。

 

そして、迷ったら保留にしてもいい。

 

後から選び直してもいい。

 

自分の世界を作る決定権は、自分にある。

 

そう思えると、私は自分の人生の操縦席に、自分自身が戻ってきたような気がします。

 

「正しい世界」を探して、その世界に自分を合わせ続けなくてもいい。

 

自分自身と一緒に、

 

自分が生きたい世界を少しずつ育てていく。

 

それが私にとっての、

 

「一人一宇宙」

 

なのだと思います。






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