浄化で爆速!願望達成☆体験100日チャレンジ第3弾36日目 自分の価値を、外側の世界に決めてもらわない

自分の価値を、外側の世界に決めてもらわない
恋愛について考えていたことから、話が思いがけず「自己価値」というところまで広がっていきました。
たとえば、好きな人が自分ではなく別の人を好きになったとき、
「私は選ばれなかった」
「私には魅力がなかったんだ」
「もう一人の人のほうが、私より素敵だったんだ」
と感じることがあります。
でも、本当にそうなのでしょうか。
私は今、そうは思いません。
相手が別の人を好きになったとしても、それは、
「私とその人を比べて、その人のほうが人間として優れていた」
ということではないと思うからです。
ただ、その人の心がそちらへ動いた。
相手が、自分の人生の中で一つの選択をした。
それだけのこともあります。
私と誰かは、そもそも比較対象ではありません。
そして相手の選択によって、私自身の価値が上がったり下がったりするわけでもありません。
そんなことを考えていたら、これは恋愛だけの話ではないことに気づきました。
私たちは、小さい頃から「評価」の世界にいる
考えてみると、私たちは子どもの頃から、たくさんの評価に囲まれて生きています。
運動会では順位がつく。
テストでは点数がつく。
コンクールでは賞が決まる。
大会では優勝者が決まる。
受験では合否が出る。
そして、
「あの高校に合格した。すごいね」
「あの大学に行った。すごいね」
と言われる。
社会に出れば、
「あの会社に勤めている」
「こんな役職についている」
「これくらい収入がある」
「こんな資格を持っている」
「こんな実績がある」
というものが、その人を見る一つの基準になることもあります。
もちろん、それらが悪いわけではありません。
大会で優勝することも素晴らしい。
行きたかった学校に合格することも嬉しい。
努力して資格を取ることも素敵なこと。
仕事で評価されたり、役職を任されたりすることも、その人が積み重ねてきたものの一つでしょう。
でも、ここで一つ、とても大切なことがあると思います。
それは、
「評価」と「自己価値」は別のものだということ。
「すごいことをした」と「価値のある人」は同じではない
100メートル走で1位になった。
それは、
「そのレースで一番速かった」
という結果です。
難関大学に合格した。
それは、
「その大学の入学試験に合格した」
という結果です。
仕事で昇進した。
それは、
「その組織の中で、その役割を任された」
ということです。
どれも素晴らしいことです。
でも、
「だから、この人は人間として価値が高い」
とはならないと思うのです。
「すごいことをした」
と、
「人間として価値が高い」
は、別の話です。
ところが、ここが一緒になると、
「いい結果を出した私は価値がある」
となります。
そして、その裏側には必ず、
「結果を出せない私は価値がない」
という考え方が生まれます。
評価されたら自分の価値が上がる。
評価されなかったら自分の価値が下がる。
そんなふうに、自分の価値が外側の出来事によって上がったり下がったりするものになってしまいます。
比較の世界では、下にいても上にいても安心できない
他人と比べて、
「あの人より私は劣っている」
と思えば苦しくなります。
でも逆に、
「私はあの人より優れている」
と思えれば、ずっと安心できるのでしょうか。
私は、必ずしもそうではないと思います。
今度は、
「この位置を失いたくない」
「抜かれたくない」
「次も結果を出さなければ」
「これからも、すごい人でいなければ」
という不安が生まれることがあります。
比較によって自分の価値を確認する世界では、
下にいても苦しい。
上にいても、その場所を失うことが怖い。
そうなると、最初は好きで始めたことだったのに、
「評価され続けるため」
「負けないため」
「すごい人だと思われ続けるため」
に続けるようになることもあるかもしれません。
そして気づいたら、本来自分が進みたかった方向とは違うところへ進んでいる。
自分自身の価値観よりも、外側の評価を基準に人生を選ぶようになっている。
そんなこともあるように思います。
外の世界には順位があってもいい
だからといって私は、競争や評価をなくしたほうがいいとは思いません。
外の世界には、順位があってもいい。
大会で競ってもいい。
テストで点数がついてもいい。
仕事で評価されてもいい。
賞をもらったら、
「やったー!」
と喜んでいい。
褒められたら、
「嬉しい!ありがとう」
と受け取っていい。
私は、その喜びまで手放す必要はないと思っています。
大切なのは、
外側の評価を、そのまま自分自身の価値にしないこと。
なのだと思います。
外で賞をもらったら、喜びは自分の中へ持って帰る。
でも、
順位表まで自分の内側へ持ち込まなくていい。
肩書きは、自分そのものではない
学校名も同じです。
会社名も同じ。
役職も同じ。
資格も、収入も、実績も同じです。
それらは、その人についての一つの情報です。
でも、その人そのものではありません。
「私は部長です」
というより、
「私は今、この会社で部長という役割を担っています」
と考えると、少し違って見えます。
まず「私」がいる。
その私が、今、一つの役割を担っている。
役職が自分を作っているのではなく、
自分という人間の人生の中に、一つの役職がある。
学校も仕事も資格も実績も同じです。
全部、自分の人生の一部分。
それらを全部集めたものが、自分の価値なのではありません。
「人の役に立つこと」さえ、自己価値の条件にしなくていい
そして、もう一つ気づいたことがあります。
それは、
「人の役に立つこと」
についてです。
人の役に立てたら嬉しい。
誰かに喜んでもらえたら嬉しい。
「ありがとう」と言われたら嬉しい。
それは、とても自然なことだと思います。
でも、
「人の役に立てる私は価値がある」
となると、その裏側には、
「人の役に立てない私は価値がない」
ができてしまいます。
仕事をしていないとき。
疲れて何もできないとき。
誰かから必要とされている実感がないとき。
そんなとき、自分自身の価値までなくなったように感じてしまう。
でも、
「今日は誰かの役に立った」
ということと、
「だから今日は私に価値がある」
ということは別です。
誰かの役に立つことには意味がある。
でも、それを自分自身の価値を成立させる条件にしなくてもいいのだと思います。
自分の価値に条件をつけない
ここまで考えてきて、私は一つのところへたどり着きました。
自分の価値に、条件をつけなくてもいい。
選ばれたから価値がある。
愛されたから価値がある。
評価されたから価値がある。
賞を取ったから価値がある。
有名な学校を出たから価値がある。
立派な肩書きがあるから価値がある。
たくさん稼いでいるから価値がある。
誰かの役に立っているから価値がある。
もし、それらが自分の価値を成立させる条件なら、その条件を失った瞬間、自分の価値まで失うことになります。
でも、本当はそうではないと思うのです。
賞を取ったら嬉しい。
恋人から愛されたら嬉しい。
仕事で評価されたら嬉しい。
誰かの役に立てたら嬉しい。
でも、
嬉しいことと、自分自身の価値は別。
評価と自己価値を切り離す。
それだけでも、ずいぶん生き方が変わるような気がします。
比較するなら、過去の自分。でも競争しなくてもいい
もし何かと比べるのなら、私は他人ではなく、過去の自分を見たいと思います。
でもそれも、
「昨日の自分より優れなければ」
という競争ではありません。
「以前は、こんなことで悩んでいたな」
「以前はこう考えていたけれど、今はこんなふうに感じるんだな」
「私、ずいぶん変わったな」
そんなふうに、自分が歩いてきた道を見る。
昨日の自分に勝つ必要もない。
ただ、自分の変化を知る。
それは比較というより、
自分自身の人生を振り返ること
に近いのだと思います。
自分の内側に、順位表を持ち込まない
外の世界には、いろいろな物差しがあります。
学校の物差し。
会社の物差し。
スポーツの物差し。
社会の物差し。
そして、一人ひとりが持っている物差し。
それらは、それぞれの場面では必要なこともあります。
でも私は、
自分の内側にまで、その順位表を持ち込まなくていい
と思っています。
誰かが私より高く評価されたからといって、私の価値が減るわけではない。
誰かが私より多く稼いでいても、私の価値が減るわけではない。
誰かが恋愛で別の人に心を惹かれたとしても、私の価値が減るわけではない。
誰かが私を評価しなかったとしても、私自身がなくなるわけではない。
外側の世界では、評価されてもいい。
褒められてもいい。
競争してもいい。
成功してもいい。
それを思いきり喜んでもいい。
でも、
それらに「私の価値を決める権利」まで渡さなくていい。
自分の内側は、自分と誰かを競わせる場所ではなく、
自分自身とつながる場所。
「私はどう感じている?」
「私は何を大切にしたい?」
「私はどう生きたい?」
「私は何を選びたい?」
そこへ戻ってくる。
自分の価値を外側に探し続けるのではなく、自分自身との関係の中で感じていく。
それが、自分と仲良くなること。
そして、自分自身を信頼して生きることにもつながっていくのだと思います。
評価は評価として受け取る。
結果は結果として受け取る。
肩書きは肩書きとして持つ。
でも、
自分の価値は、それらとは別のところに置いておく。
外の世界の順位表を、自分の内側まで持ち込まない。
そうすることで、私たちはもっと自由に、自分自身の人生を選んでいけるのかもしれません。