浄化で爆速!願望達成☆体験100日チャレンジ第3弾62日目 助けたことで嫌われても、それは相手のもの。私は私のできることをする

「人に助けてもらったことで、かえってその相手を嫌いになることがある」
そんな心の働きを説明する「自尊心脅威モデル」というものがあることを知りました。
最初に知ったとき、私は少し驚きました。
私は誰かに助けてもらったとき、その人に嫌悪感を抱いた経験があまり思い当たらなかったからです。
でも、考えていくうちに、
「ああ、これは場合によっては起こるかもしれない」
と思うようになりました。
たとえば、自分にとってものすごく恥ずかしい出来事があったとします。
誰にも見られたくなかった。
自分の無力さを感じた。
自分でも見たくないような、かっこ悪い自分だった。
そんなときに誰かに助けてもらった。
もちろん「助けてくれてありがとう」という感謝はある。
でも、その人を見るたびに、
「あのときの自分」
を思い出してしまう。
すると、いつしかその人と会うことそのものが嫌になったり、その人に嫌悪感を抱いたりすることもあるのかもしれません。
相手が嫌いというより、
「あんな自分が嫌だった」
という気持ちが、助けてくれた相手にくっついていることだってあるのかもしれない。
そんなことを考えていました。
でも、ここで私は少し引っかかりました。
もし、助けることによって相手の自尊心を傷つけてしまう可能性があるのなら、
「人を助けるときには気をつけなければいけないのかな?」
と。
少しだけ、ひるんだんです。
そこで私は、逆を考えてみました。
もし、助けなかったら?
たとえば、一人の女性の背後に怪獣が迫っているとします。
本人は気づいていない。
私はそれに気づいている。
そして私には、その人を助けることができる。
そんな状況なら、私はたぶん咄嗟に助けると思います。
ところが、助けられた女性が、
「自分では何もできなかった」
「助けられなければならなかった自分が惨めだ」
と感じて、その恥ずかしさから私を嫌いになることだって、理屈の上ではあるかもしれない。
では、私は嫌われないために何もしなければいいのでしょうか。
今度は、怪獣が迫っていることを知っていたのに私は何もしなかった。
その結果、女性は襲われて怪我をした。
そうなったら、
「気づいていたのに、どうして助けてくれなかったの?」
と思われるかもしれません。
もっと日常的な例なら、ワンピースの背中のファスナーが開いている人を見つけたとき。
私はたぶん、そっと近づいて小声で教えると思います。
そして、相手の了承を得てサッと直して、何事もなかったように過ごしてもらう。
でも、それによって、
「見られてしまった。恥ずかしい」
と思われるかもしれない。
だからといって、気づいているのに知らないふりをして、その人があとから自分で気づいたら、
「周りの人、絶対気づいていたよね。どうして誰も教えてくれなかったんだろう」
と思うかもしれない。
そこで気づきました。
どちらを選んでも、嫌われる可能性をゼロにはできない。
人を助けたとしても。
助けなかったとしても。
相手がその出来事をどう受け取るのかは、私には決められません。
「ここまでしてくれてありがとう」と思う人もいれば、
「そこまではしてほしくなかった」
と思う人もいる。
私は「ここまでやってあげたほうがいい」と思って行動しても、相手にとっては少しやりすぎだったかもしれない。
反対に、「本人ができるところは残しておこう」と思って手を出さなかったところを、
「そこも助けてほしかった」
と思われるかもしれない。
結局、
私がどんな意図で行動したのか。
実際にどんな援助をしたのか。
相手がどのくらいの援助を望んでいたのか。
そして相手がその出来事をどう意味づけるのか。
これは全部、同じではありません。
だから私は思いました。
相手が私をどう思うかまで、私が背負うことはできない。
それは相手のものだから。
私はそのとき、そのときの自分にできる範囲で考えて、感じて、行動するしかありません。
危ないと思ったら、助ける。
困っていると思って、手を差し伸べたいと思ったら、手を差し伸べる。
余裕がある場面なら、
「手伝おうか?」
と相手に聞くことだってできる。
でも、咄嗟の場面ではそんなことを考えている時間さえないことがあります。
そして、もう一つ思ったことがあります。
もし本当に危険な出来事を目の前にして、身体がフリーズしてしまったら。
頭が真っ白になって、
何をしたらいいのか分からなくなって、
身体も動かなくなってしまったら。
それは、
「助けなかった」
でも、
「助けようとしなかった」
でもないと思うんです。
助けることができなかった。
それだけなのだと思います。
「助けたい」という思考さえ生まれる前に、身体が固まってしまうことだってあるかもしれない。
それは悪意ではありません。
その瞬間に起きた身体の反応です。
あとから、
「どうして私は何もできなかったんだろう」
と自分を責め続けなくてもいい。
その瞬間の自分には、それしかできなかったのだから。
今回、「自尊心脅威モデル」というものを知ったところから、私はずいぶん遠くまで考えました。
人を助けたら、嫌われることもあるのかもしれない。
それを知ったとき、少し怖くなりました。
でも、ぐるっと一周して、今はこう思います。
それでも私は、助けたいと思ったら助ける。
相手がどう受け取るかは、相手のもの。
「もっとこうしてほしかった」
「そこまでしてほしくなかった」
「恥ずかしかった」
「あなたのことが嫌になった」
そう思われる可能性まで、私はなくすことはできません。
もちろん、できる限り相手の尊厳を大切にしたい。
できるなら本人の意思も確認したい。
でも、未来の相手の感情をすべて予測して、誰からも嫌われない行動を選ぶことはできません。
だったら私は、
嫌われないための選択より、自分が後悔しない選択をしたい。
その瞬間に自分が分かる範囲で。
その瞬間に自分ができる範囲で。
自分なりの精一杯をする。
そして、結果として相手から嫌われたとしても、
「あのときの私は、あのときの私なりに行動した」
と思えたら、それでいい。
逆に、何もできなかったとしても、
「あのときの私は、怖くて動けなかったんだね」
と自分のところへ戻ってくる。
助けても、助けられなくても。
相手が感謝しても、怒っても、嫌っても。
相手の気持ちは相手のもの。
そして私は、
その瞬間の自分ができることをして、自分まで自分を責めない。
「人から嫌われないために、どう行動するか」ではなく、
「私は、どうありたいのか」
今回、自尊心脅威という言葉について考え続けた先で、私はそこに戻ってきました。