浄化で爆速!願望達成☆体験100日チャレンジ第3弾68日目 「最後までやりなさい」━━━ところで、”最後”ってどこですか?

「一度始めたことは、最後までやりなさい」
子どもの頃、こんな言葉を聞いたことがある人もいるのではないでしょうか。
きっとこの言葉には、
「継続することの大切さを知ってほしい」
「すぐに諦めるのではなく、続けた先に見えるものも体験してほしい」
そんな大人なりの思いが込められていたのだと思います。
「継続は力なり」という言葉があるように、続けることで初めてできるようになることもあります。
最初はうまくいかなかったことが、何度も繰り返すうちにできるようになる。
その経験は、自分の力になっていくものだと思います。
だから、継続する経験そのものには、とても大切な意味があります。
でも私は、ここでちょっと意地悪なツッコミを入れたくなります。
「最後までやりなさい」って言うけれど……ところで、“最後”ってどこですか?
実は「最後」がないことも多い
例えば、習い事。
ピアノを始めたとして、最後とはどこでしょう?
一曲弾けるようになったら?
発表会に出たら?
何年か習ったら?
プロになったら?
武道なら何段まで?
語学なら、どのレベルまで話せるようになったら最後?
研究や技術の世界なら、新しい発見や技術が生まれ続けて、そもそも「これで全部終わり」というところがないものもあります。
そう考えてみると、
「最後までやりなさい」
という言葉には、実は終了条件がありません。
大人の頭の中にある「最後」は、子どもには見えない
もしかしたら、大人が本当に言いたかったのは、
「小学4年生から始めたんだから、まずは6年生までは続けてみよう」
ということだったのかもしれません。
それなら、
「まず2年間やってみよう」
「その間に、続けることで上達する経験もしてみよう」
「そして2年経ったら、そのとき改めて続けたいか考えてみよう」
と伝えればいい。
そうすれば、子どもにも「どこまでやってみるのか」がわかります。
大人には言わなくてもわかっていることでも、子どもにはわからないことがあります。
「最後まで」とだけ言われれば、
「一度始めたら、やめてはいけない」
と受け取ってしまうことだってあると思います。
だからこそ、
何のために続けてほしいのか。
いつまでやってみるのか。
その後には、もう一度選べること。
そこまで伝えてあげることも大切なのだと思います。
「続かなかった」を、その人の性格にしなくてもいい
そして、もう一つ気になる言葉があります。
「飽き性」
「三日坊主」
「あなたって本当に続かないよね」
何かを途中でやめたとき、こんなふうに言われることがあります。
でも、本当にその人には「継続する力がない」のでしょうか?
もしかしたら、
実際にやってみたら思っていたものと違ったのかもしれない。
最初は興味があったけれど、途中で興味がなくなったのかもしれない。
自分が体験したかったところまでは十分体験して、もう満足したのかもしれない。
あるいは、
「これは私には合わない」
とわかったのかもしれません。
それらを全部まとめて、
「あなたは飽き性だから」
としてしまうのは、少し違うように思います。
「続かなかった」という結果だけを見るのではなく、
「どうして続けたいと思わなくなったんだろう?」
と、その人の内側を見てみる。
すると、まったく違うものが見えてくるかもしれません。
「飽きた」も、大切な自分からの情報
「飽きた」という言葉も、なんとなく悪いものとして扱われがちです。
でも私は、
飽きることそのものが悪いとは思いません。
「もう十分楽しんだ」
「ここで得たいものは得られた」
「今は別のことに心が動いている」
そんな自分からのサインかもしれないからです。
もちろん、少し難しくなっただけですぐやめてしまい、それによって本人が困っているのなら、
「私はどうして難しくなるとやめたくなるんだろう?」
と考えてみることにも意味があります。
でもそれと、
「もう興味がない」
「十分体験した」
「やってみたけれど違った」
は、同じではありません。
だから、
「続かなかった=根性がない」
と簡単に決めなくてもいいのだと思います。
「私はできなかったから、あなたにはやってほしい」
そして習い事には、もう一つ別のことが重なる場合があります。
親自身が子どもの頃にできなかったこと。
やってみたかったけれど、できなかったこと。
途中で諦めざるを得なかったこと。
それを、
「自分の子どもには経験させてあげたい」
と思うことがあります。
そこには、親なりの愛情がある場合もあると思います。
自分ができなかったからこそ、この子には機会を与えてあげたい。
それ自体は、優しさから生まれることもあるでしょう。
でも、ここで忘れたくないことがあります。
子どもは、親の分身ではない。
一人の人間です。
親が好きだったものを、子どもも好きとは限らない。
親が憧れていたものに、子どもも憧れるとは限らない。
親が得られなかったものを、子どもが欲しいとは限らない。
子どもには子どもの、
好きなものがある。
嫌いなものがある。
得意なものがある。
苦手なものがある。
そして何より、
「私はこれをやってみたい」
「これはやりたくない」
という感覚があります。
選択する力は、誰かから「与えてもらう」ものではない
「子どもにも選択の自由を与えてあげる」
という言い方もできます。
でも私は、少し違うようにも感じます。
選択する自由そのものを、大人が所有していて、それを子どもに分け与えるわけではないからです。
子どもも一人の人間として、
自分がどう感じているのかを表現したり、
何を選びたいのかを考えたりする存在です。
もちろん、年齢によって判断できる範囲は違います。
安全や生活に関わることなら、大人が決めなければならないこともあります。
でも、
「あなたはどうしたい?」
と聞くことはできます。
「やってみたい?」
「実際にやってみてどうだった?」
「もう少し続けてみたい?」
「もう十分だと思っている?」
そんなふうに、自分の感覚を確認する経験を重ねていく。
それは、
自分の人生について、自分で考えて選ぶ練習
にもなるのではないでしょうか。
始める自由があるなら、選び直す自由もある
私は、新しいことを始めるとき、
もっと軽やかでもいいと思っています。
やってみる。
体験してみる。
しばらく続けてみる。
そして、自分に聞いてみる。
「どうだった?」
面白かったら、もっと続ける。
まだよくわからなかったら、もう少しやってみる。
十分だったら終える。
違うと思ったら、別のものを選ぶ。
一度離れて、何年かしてまたやりたくなったら戻ってくる。
そんな選び方だってあります。
始めることは、一生続ける契約ではありません。
むしろ、
「始めたら最後までやらなければならない」
と思っていたら、新しいことを始めること自体が怖くなってしまいます。
「途中で飽きたらどうしよう」
「向いていなかったらどうしよう」
「やめたら、また続かないと言われるかもしれない」
そう思ったら、
最初から何もしない方が安全になってしまいます。
それは、少しもったいない。
継続する力と同じくらい、選び直す力も大切
続けることでしか見えない景色があります。
だから「継続する力」は大切です。
でも同じように、
「もう違う」と気づいたときに方向を変える力。
「ここまでで十分」と終える力。
そして、
「今度はこっちをやってみたい」
と次へ進む力も大切なのではないでしょうか。
続けることだけが正解ではない。
やめることだけが正解でもない。
大切なのは、
「私は今、どう感じている?」
と自分に聞きながら、その都度選んでいくこと。
一度始めたら、最後まで。
ではなく、
「まず、ここまではやってみよう。
そして、そこまで行ったら、また自分で選ぼう。」
そんなふうに伝えられたら、
継続することの大切さも、
自分で選ぶことの大切さも、
両方を体験できるのではないでしょうか。
そして大人になった私たちも、
いつからだって自分に聞き直していい。
「私は、本当にこれを続けたい?」
「それとも、もう十分?」
「今は、何をやってみたい?」
昨日までの選択に縛られず、
今日の自分が、また選び直す。
それは「続かなかった」のではなく、
自分の人生を、自分で選び続けている
ということなのかもしれません。