浄化で爆速!願望達成☆体験100日チャレンジ第3弾19日目 バウンダリーは、相手を遠ざけるための壁ではない

バウンダリーは、相手を遠ざけるための壁ではない
「バウンダリー」「境界線」という言葉を初めて聞いたとき、私は少し冷たいもののように感じていました。
ここから先は、私の領域。
ここからは入ってこないでね。
そんなふうに、人との間に線を引いて、相手を遠ざけるもののように感じていたのです。
もしかすると、同じような印象を持つ人もいるのではないでしょうか。
でも、自分自身のバウンダリーについて考え、少しずつ育てていく中で、今はまったく違うものに感じています。
バウンダリーとは、
相手を拒絶するための線ではなく、自分と相手の両方を尊重するためのもの。
私は今、そんなふうに感じています。
「私はこう感じる。だからあなたも同じ」は、本当に尊重なのだろうか
例えば、私はある出来事に悲しさを感じたとします。
すると以前の私は、
「こんなことをされたら、誰だって悲しいよね」
と思ってしまうことがありました。
自分が悲しいのだから、相手も同じことをされたら悲しいはず。
自分が嬉しいのだから、相手も嬉しいはず。
自分ならこうするのだから、相手も同じようにするはず。
一見すると、これは相手の気持ちを考えているようにも見えます。
でも今は、少し違うように感じています。
私は悲しい。
それは私の感情です。
でも、同じ出来事について相手がどう感じるのかは、相手にしか分かりません。
もしかすると悲しいかもしれない。
何とも思わないかもしれない。
あるいは、私には想像できなかった感じ方をするかもしれない。
「私はこう感じる。でも、あなたがどう感じるかは、あなたのもの。」
そう考えられることも、相手への尊重なのだと思います。
自分と相手を分けるからこそ、相手を一人の人間として見られる
バウンダリーというと、「自分を守る」という側面がよく語られます。
もちろん、それも大切です。
でも、バウンダリーにはもう一つ、とても大切な役割があるのだと思います。
それは、
相手を自分とは違う、一人の人間として尊重すること。
「私ならこうするのに、どうしてあなたはしてくれないの?」
そんな怒りの奥には、ときとして、
「あなたも私と同じ価値観のはず」
という前提が隠れていることがあります。
でも、本当は違うのかもしれません。
私はこれを大切にする。
でも、相手は別のものを大切にしている。
私はこの言葉を悲しいと感じる。
でも、相手は同じ言葉をそれほど重く受け取らない。
私と相手は、同じ世界を生きているように見えて、それぞれ違う経験をし、違う価値観を持ち、違う感じ方をしています。
だから、
私は私。あなたはあなた。
これは、冷たい言葉ではないのだと思います。
むしろ、
「あなたには、私には分からないあなたの世界があるんだね」
と認めること。
それは、とても深い尊重なのではないでしょうか。
相手を理解することと、受け入れることは違う
ここで、私がとても大切だと感じていることがあります。
相手を理解することと、その人の行動をすべて受け入れることは違います。
「この人には、この人なりの事情があったのかもしれない」
と思うことはできます。
でも同時に、
「それでも私は悲しかった」
と言っていい。
相手に悪気がなかったとしても、
「私はその関わり方は望みません」
と伝えてもいい。
相手の考えを尊重しながら、
「でも私は、その考えには賛同しません」
と距離を取ることもできます。
以前の私は、相手を理解すると、自分が我慢しなければならないように感じることがありました。
相手にも事情がある。
悪気があったわけではない。
だから私が受け入れればいい。
でも、それでは自分の気持ちが置き去りになってしまいます。
本当の意味で相手を尊重することは、自分を犠牲にすることではありません。
あなたの気持ちも大切。
そして、私の気持ちも大切。
その二つを同時に存在させるために、バウンダリーがあるのだと思います。
バウンダリーは「壁」ではなく「橋」
私は以前、バウンダリーとは壁のようなものだと思っていました。
でも今は、むしろ「橋」に近いものなのではないかと感じています。
境界線がない状態では、自分と相手が混ざってしまいます。
「私がこう思うのだから、あなたもそう思うはず」
「あなたが悲しんでいるから、私も何とかしなければ」
「あなたが望んでいるから、私は嫌だけれど応えなければ」
そんなふうに、どこまでが自分で、どこからが相手なのかが分からなくなってしまうことがあります。
でも、まず、
こちら側に私がいる。
向こう側にあなたがいる。
ということが分かっていれば、その間に橋を架けることができます。
「私はこう感じています。あなたはどうですか?」
「私はこうしたいです。あなたはどうしたいですか?」
「ここまではできます。でも、ここから先はできません。」
そうやって、お互いの世界を尊重しながら関わることができる。
境界があるから、つながることができる。
これは、一見すると不思議なことかもしれません。
でも、境界のない「一体化」と、お互いを尊重した「つながり」は、まったく違うものなのだと思います。
「誰が悪いか」から、「私はどうしたいか」へ
バウンダリーが育ってくると、何か問題が起きたときの感じ方も、少しずつ変わってくるように感じています。
もちろん、腹が立つこともあります。
「あの人が悪い」と思うことだってあります。
それも人間として自然な反応なのだと思います。
でも、その先で、
「私は何に傷ついたんだろう?」
「私は本当は、どうしてほしかったんだろう?」
「私は何を大切にしていたんだろう?」
「そして、これから私はどうしたいんだろう?」
と、自分自身へ意識を戻せるようになっていく。
すると、相手を責め続けることだけが、自分を守る方法ではなくなっていきます。
相手を悪者にしなくても、
「私は嫌だった」
と言える。
相手を変えなくても、
「私はここから離れます」
と選べる。
相手の価値観を否定しなくても、
「私は違うものを選びます」
と言える。
そこに、自分自身への信頼も育っていくのだと思います。
私は私。あなたはあなた。それでも、つながることはできる
バウンダリーは、人とのつながりを切るためのものではありません。
むしろ、
自分を失わずに、人とつながるためのもの。
なのだと思います。
私は私の気持ちを大切にする。
あなたには、あなたの気持ちがあることを認める。
私は私の人生を選ぶ。
あなたには、あなたの人生を選ぶ自由がある。
その上で、一緒にいられるところでは一緒にいる。
違うところでは、お互いの違いを認める。
そして、どうしても一緒にいることが苦しいのであれば、距離を取ることもできる。
それは冷たさではなく、お互いを一人の人間として扱うことなのだと思います。
だから今の私は、バウンダリーという言葉に、以前ほど冷たいものを感じません。
むしろ、とても優しいものに感じています。
自分を大切にするために、相手を悪者にしなくていい。
相手を大切にするために、自分を犠牲にしなくていい。
私は私。
あなたはあなた。
そして、その二人が必要なときに橋を架けて出会う。
それが、人と人が本当の意味で尊重し合いながらつながるということなのかもしれません。