浄化で爆速!願望達成☆体験100日チャレンジ第3弾46日目 「私は私」を今の私が言葉にするなら――評価という壇上には立たない

「私は私」を今の私が言葉にするなら――評価という壇上には立たない
最近、私はずっと、
「私は私」
という感覚について考えています。
とても単純な言葉なのに、説明しようとすると難しい。
「自己肯定感」なのかな。
「自己信頼」なのかな。
「自信」なのかな。
「存在価値」なのかな。
どれも近いようで、どこか少し違う。
それでも私は、今の自分が感じているこの感覚を、今の時点で言葉にしておきたいと思いました。
いつかもっとぴったりの言葉が生まれるかもしれません。
そのときは、そのとき。
今の私が「私は私」を表現するなら、
「私は、評価という壇上には立たない」
という言葉が、一番近いように感じています。
私は100点だから素晴らしい、ではない
私たちは小さな頃から、たくさんの評価に触れて生きています。
何かができたら、
「すごいね」
「偉いね」
と褒められる。
テストを受ければ点数がつく。
学校では成績がつく。
試験には合格と不合格がある。
大会には順位がある。
社会に出れば、採用されたり、されなかったりする。
仕事でも成果が評価される。
恋愛でも、
好きな人から選ばれた。
選ばれなかった。
そんな結果があります。
社会の中で生きていれば、評価そのものをなくすことはできません。
そして、評価がすべて悪いとも思いません。
できたことを褒めてもらえたら嬉しい。
努力を認めてもらえたら嬉しい。
試験に合格したら嬉しい。
好きな人から好きになってもらえたら嬉しい。
ただ、いつの間にか私は、
「結果についての評価」と「私という存在そのもの」を結びつけていたことがあった
ように思います。
できた私は○。
できなかった私は×。
認められた私は○。
認められなかった私は×。
選ばれた私は○。
選ばれなかった私は×。
まるで、人生のあらゆる出来事によって、私自身の点数まで上がったり下がったりするように。
でも最近、私は思うようになりました。
そもそも、私という存在は採点するものなのだろうか。
私は、採点される答案用紙ではない
テストなら採点できます。
100点だった。
70点だった。
30点だった。
試験なら結果があります。
合格した。
不合格だった。
大会なら順位があります。
1位だった。
予選で敗退した。
仕事にも成果があります。
うまくいった。
今回は思うような結果にならなかった。
それらは、それぞれの基準に沿って評価することができます。
でも、
その結果と、私はイコールではない。
テストで30点だったことと、
「私は30点の人間だ」
は、まったく違う。
何かに失敗したことと、
「私は失敗した人間だ」
も違う。
誰かに選ばれなかったことと、
「私は魅力のない人間だ」
も違う。
結果について評価することはできる。
でも、その評価をそのまま私という存在に貼り付ける必要はない。
なぜなら、
私は採点される答案用紙ではないから。
「自分に100点をあげよう」とも少し違う
自分を大切にするために、
「私は100点」
「私は素晴らしい」
「私は価値のある人間」
と思うことも、ときには自分を支えてくれると思います。
でも、今の私が感じている「私は私」は、そこからもう少し違うところにあります。
100点を目指すのでもなく、
0点だと思っている自分を100点まで引き上げるのでもない。
そもそも私は、点数をつける対象ではない。
「価値が高い私」になりたいわけでも、
「価値が低い私」を否定したいわけでもない。
高い、低い。
優れている、劣っている。
○、×。
そういう評価の物差しが置かれている壇上から、
私は静かに降りてしまいたい。
というより、本当は最初から、
私という存在そのものは、その壇上に立つ必要なんてなかったのかもしれない。
そう思うんです。
結果に○×をつけても、私には○×をつけない
以前から私は、
「結果に○×をつけても、自分には○×をつけない」
という言葉を大切にしています。
でも最近になって、その理由が少しわかってきた気がします。
なぜ、私自身には○×をつけなくていいのか。
それは、
私という存在そのものが、そもそも○×をつける対象ではないから。
なのかもしれません。
何かをやってみて、
「うまくいった」
なら、それでいい。
「今回はうまくいかなかった」
なら、それもひとつの結果です。
そこから、
「じゃあ次はどうしよう?」
と考えればいい。
でも、
「うまくいかなかった。だから私はダメ」
まで行かなくていい。
結果を振り返ることと、自分を採点することは別のことなんですよね。
選ばれなくても、私は小さくならない
これは恋愛でも同じだと思います。
好きな人に選ばれた。
両思いになった。
嬉しい。
好きな人に選ばれなかった。
思いは通じなかった。
悲しい。
それは大きな出来事だと思います。
実際にその立場になったら、簡単には割り切れないこともあるでしょう。
でも、
悲しいことと、私の価値が下がることは別。
相手が私を選ばなかったからといって、私という存在が昨日より小さくなるわけではありません。
ただ、その人の好みや気持ちとは一致しなかった。
その二人の間では、恋愛として成立しなかった。
それを、
「選ばれなかった私は×」
にしなくていい。
相手が私をどう思うかは、相手の自由。
そして、
その人の評価の下に、自分自身を置かなくてもいい。
私は私。
選ばれても、私は私。
選ばれなくても、私は私です。
外側の物差しで、自分そのものを測らない
生きていると、外側からたくさんの物差しがやってきます。
学歴。
収入。
仕事。
肩書き。
容姿。
年齢。
恋愛。
結婚。
フォロワー数。
売上。
資格。
実績。
人気。
それぞれが必要な場面では、数字や条件として意味を持つこともあります。
でも、
それらは私という存在そのものを測る物差しではない。
肩書きが増えても、私が大きくなるわけではない。
肩書きがなくなっても、私が小さくなるわけではない。
誰かに褒められても、
誰かに批判されても、
それによって私という存在そのものの点数が上下するわけではない。
外側の世界には、評価があります。
でも、
私は、その評価そのものではない。
だから「私は私」
これをもっと上手に表現できる言葉が、いつか見つかるかもしれません。
今はまだ、
「私は私」
としか言えないところがあります。
でも、その「私は私」の中には、
私を高く評価しよう。
もっと自信を持とう。
自分は素晴らしいと思おう。
ということとは少し違う、静かな感覚があります。
私は誰かより上だから大丈夫なのではない。
何かができるから大丈夫なのでもない。
誰かに認めてもらったから大丈夫なのでもない。
ただ、私は私。
評価される前から私で、
評価されたあとも私。
うまくいく前から私で、
うまくいかなかったあとも私。
何かを得ても私。
失っても私。
そこにあるのは、強く自分を肯定するような自信というより、
もっと静かなものです。
私は今のところ、それを
「静かな自信」
と表現しています。
評価という壇上には立たない
私はこれからも、評価されることはあると思います。
仕事をすれば、お客様から評価されることもある。
何かに挑戦すれば、結果も出る。
ブログを書けば、読まれる記事もあれば、あまり読まれない記事もあるでしょう。
うまくいくこともあれば、失敗することもある。
そのたびに、嬉しくなったり、がっかりしたりもすると思います。
それでいい。
ただ、ひとつ忘れたくないことがあります。
評価される結果と、私という存在は別のもの。
結果について考える。
必要なら改善する。
失敗したら、また試す。
成功したら、喜ぶ。
でも、そのたびに私自身まで採点台に乗せなくていい。
私は、
100点だから○になる存在でも、
0点だから×になる存在でもない。
そもそも、
私は評価という壇上には立たない。
それが今の私にとって、
「私は私」
という言葉に一番近い表現です。
いつか、もっとぴったりの言葉が生まれるかもしれない。
でも今は、この言葉を大切にしていたい。
私は私。
結果には○も×もある。
評価されるものもある。
でも、私そのものには○も×もつけない。
私は採点される答案用紙ではない。
誰かの物差しで自分の存在を測らなくていい。
評価という壇上から降りて、
私はただ、
私として、自分の人生を生きていく。