こんにちは。
このブログ「まっさらな瞳」へようこそ。
ここは、あなたが本来の自分を思い出し、心をオープンにして、毎日を軽やかに、そして自分らしく生きるためのヒントをお届けする場所です。
私たちは生まれたとき、誰もが純粋な瞳を持っています。その瞳の奥には、ありのままの自分がいて、世界と柔らかくつながりながら輝く力があります。けれど、日々の生活や人との関わりの中で、その純粋さや自由さを忘れてしまうこともあります。
このブログでは、
自己信頼や内なる叡智を思い出すこと
自分らしい生き方を育む気づき
夢を叶えながら、心地よく輝く日々のヒント
などを、私自身の体験や講座での学びとともにお届けしていきます。
ヒーラー養成講座やセクシャルウェルネスなどの学びも、この「真っさらな瞳」という視点で統合され、あなたの中の本来の力を呼び覚ますきっかけになれば嬉しいです。
さあ、一緒に、目を覚ましたばかりの赤ちゃんのような、真っさらな瞳で、毎日を見つめてみませんか。

ふと「こじらせ女子」という言葉が氣になったことをきっかけに、
その意味を考えていました。
一般的には、恋愛や人間関係で素直になれず、
うまくいかなくなってしまう女性を指す言葉として使われているように思います。
でも実際に自分の経験や周りの人間関係を振り返ってみると、
それは単純に「その人の性格の問題」とは
言い切れないように感じました。
相手の態度が曖昧だったり、
急に距離が変わったり、
何を考えているのか分からないまま関係が進むと、
人は自然と不安になります。
その不安の中で
「どう受け取ればいいのか」
「自分が悪いのかもしれない」と、
自分の中で答えを探し始めてしまう。
本当は、分からないことは相手に聞けばいいのかもしれません。
でも、嫌われるのが怖かったり、
自分に原因があると思い込んでいたりすると、
その一歩がとても難しくなってしまいます。
その結果、外から見ると
「こじらせているように見える反応」に
なってしまうことがあるのだと思います。
でもそれは、
ただ単にその人が面倒な性格なのではなくて、
「安心して確認できる関係性になっていなかっただけ」
なのかもしれません。
また一方で、相手側にも、
無意識のうちに態度が揺れたり、
距離感が安定しなかったりすることがあります。
その曖昧さが、
さらに相手の不安を大きくしてしまうこともある。
つまりこれは、
一方の問題というよりも、
関係の中で起きる“相互作用”のようなものだと感じました。
そしてもう一つ感じたのは、
「恋愛がある・ない」
「結婚している・していない」
といった表面的な状態だけでは、
人の誠実さや人間性は分からないということです。
現実には、関係があることと
人としての成熟度は必ずしも一致しませんし、
逆に関係がないからといって問題があるとも限りません。
そうした
“社会的なイメージ”と
“現実の人間関係”の間にはズレがあって、
そのズレの中で、
人は自分を責めてしまうこともあるのだと思います。
私はこれまでの経験の中で、
「自分に何か欠けているのではないか」
と感じてしまうことがありました。
でも今振り返ると、
それは必ずしも自分の問題ではなく、
関係の中で起きていたことを
自分の中に引き受けすぎていたのかもしれません。
今は、人との関わり方そのものを

前回、「相手の自由を尊重するということ」
という記事を書きました。
その後、改めて考えていて気づいたことがあります。
それは、
自由に選ぶことと、自己信頼は
深くつながっているということです。
わたしは、人が自由に選択するためには、
自分自身を信頼できていることが大切だと思っています。
なぜなら、
自分を信頼できない時、
人はどうしても外側に答えを求めてしまうからです。
「あの人が正しいと言うなら。」
「みんなが選んでいるなら。」
「有名な人が勧めているなら。」
そんなふうに、
自分の外側にある基準を頼りたくなります。
もちろん、
人から学ぶことは大切です。
経験者の知恵や専門家の知識に
助けられることもたくさんあります。
わたし自身も、多くの人から学んできました。
けれども、
本当に良い学びとは何だろうと考えた時、
わたしはこう思うのです。
それは、
その人が最終的に自分の足で立てるようになること。
自分で考えられるようになること。
自分で選べるようになること。
そして、
自分自身を信頼できるようになること。
もし学び続けても、
「あの人がいないと決められない。」
「あの人が何と言うかが気になる。」
「正解を教えてもらわないと不安になる。」
そんな状態のままだとしたら、
それは本当の意味で力になっているとは言えないのかもしれません。
わたしは時々、それを
補助輪に例えることがあります。
補助輪は悪いものではありません。
自転車に乗る練習をする時には、
とても役立ちます。
けれども、
補助輪の目的は、
ずっとつけ続けることではありません。
いつか外して、
自分で走れるようになることです。
もし補助輪を外せないままになっていたらどうでしょう。
本人は進んでいるように感じるかもしれません。
けれども、本当の意味で
自分の力で走っている感覚は得られないかもしれません。
これは、
人間関係や学びの世界でも同じように感じます。
人によっては、
恐怖や不安を使って人を引き留めようとすることがあります。
「これをやめたら不幸になる。」
「この人から離れたら成功できない。」
「今すぐ決断しないと手遅れになる。」
そうした言葉は、
一見すると人を導いているようにも見えます。
けれども、その奥では、
「自分では選べない。」
「自分では判断できない。」
「外側に正解がある。」
という感覚を強めてしまうことがあります。
結果として、
自分を信頼する力は育ちにくくなります。
人生のハンドルを握っているようで、
実は誰かに握ってもらっている状態です。
わたしは、本来の人間の姿は
そうではないと思っています。
人は一人ひとり、
自分で感じる力を持っています。
考える力を持っています。
選ぶ力を持っています。
もちろん、
間違うこともあります。
迷うこともあります。
失敗することもあります。
けれども、
それらを含めて人生なのだと思います。
誰かが用意した正解を
追い続ける人生よりも、
「私はこう感じる。」
「私はこう選ぶ。」
と生きる人生のほうが、
生きている実感があるのではないでしょうか。
自分で選び、自分で責任を引き受ける。
その積み重ねが
自己信頼を育てていくのだと思います。
そしてわたしは、
人と人との理想的な関係も、
依存ではなく自立の上に成り立つものだと感じています。
誰かに従う人と、従わせる人。
正解を持つ人と、正解を教わる人。
そんな関係ではなく、
それぞれが自分の足で立ちながら出会う関係です。
それぞれが自分の感覚を持ち、
それぞれが自分の考えを持ち、
それでも互いを尊重しながら関わる。
そこから新しい発想や創造が生まれていく。
わたしはそんな関係に希望を感じます。
だからこそ、
相手を尊重するということは、
相手をコントロールしないことなのだと思います。
相手を不安で動かさないこと。
相手の選択を奪わないこと。
そして何より、
相手の選ぶ力を信頼すること。
それが本当の意味での
尊重なのではないでしょうか。
そして同時に、
自分自身の選ぶ力を信頼すること。
その自己信頼こそが、

最近、SNSを見ていて感じることがあります。
それは、人に何かを伝える時の「伝え方」についてです。
自分自身が本当に良いと思える技術や知識、考え方に出会うと、
それを誰かにも伝えたくなるのは自然なことだと思います。
実際、私自身にもそんな時期がありました。
「こんなに素晴らしいものがあるなら、もっと多くの人に知ってほしい。」
そう思うこと自体は、
とても自然なことです。
けれども最近、
少し気になる発信を見かけることがあります。
それは、自分の知っている方法や技術を伝えるために、
他の方法を否定したり、見下したりするような発信です。
「あれは間違っている。」
「本物はこれだけだ。」
「これを知らない人は騙されている。」
そんな言葉を目にすることがあります。
もちろん、その発信者の方も悪意があるわけではなく、
本当に良いと思っているからこそ伝えているのかもしれません。
けれども私は、その内容そのものよりも、
そこにある姿勢に違和感を覚えるのです。
なぜなら、本当に大切なのは
「相手が自分で選べること」だと思うからです。
わたしは、
「私はこれが良かった。」
「こういう考え方もある。」
「こんな可能性もある。」
そんなふうに伝えることは素敵だと思います。
一方で、
「これを知らないと損をする。」
「今すぐ決めないとチャンスを逃す。」
「本物を知らない人は騙されている。」
という伝え方には、どこか息苦しさを感じます。
そこには、相手が考える余地や
選ぶ余地が少なくなってしまうからです。
以前、SNSでは
「飛ばすと幸せになれません。」
「飛ばすと運を逃します。」
といった投稿をよく見かけました。
私はそういう投稿を見るたびに、
そのまま通り過ぎていました。
なぜなら、その内容が正しいかどうか以前に、
不安や恐怖を使って人を動かそうとしているように感じたからです。
危険を伝えることと、不安を煽ることは違います。
本当に相手を大切に思うなら、
相手が安心した状態で考え、
自分で選べるように伝えることができるはずです。
けれども不安や恐怖を利用した発信は、
考える時間や余白を奪ってしまいます。
「今すぐ。」
「急いで。」
「逃したら終わり。」
そうやって焦りを生み出し、人を誘導していく。
わたしはそのやり方に魅力を感じません。
また、「成功する人は決断が早い」
という言葉もよく耳にします。
もちろん、決断力が大切な場面はあります。
けれども、その言葉が
「迷う人はダメだ。」
「考える時間を取るのは間違いだ。」
という圧力として使われるなら、
それもまた違うように思います。
大切なのは、早く決めることではなく、
自分で納得して選ぶことではないでしょうか。
そして私は、こうした発信が増えた背景には、
現代社会の流れもあるのではないかと感じています。
長い間、多くの人が
「みんなが選んでいるから」
「多数派だから」
「有名な人が言っているから」
という基準で判断することに慣れてきました。
もちろん、それ自体が悪いわけではありません。
けれども、その結果として、
自分で考え、自分で選ぶ力を使う機会が
少なくなってきた面もあるのかもしれません。
そこへSNSやマーケティングの技術が加わり、
人の不安や焦りを刺激する発信が広がりやすくなったようにも感じます。
だからこそ、
これからの時代に大切なのは、
自分で考えることではないでしょうか。
誰かを盲信することでもなく、
誰かの不安に乗せられることでもなく、
「私はどう感じるだろう。」
「私にとって本当に大切なものは何だろう。」
と問いかけること。
そして発信する側もまた、
相手を動かすことよりも、
相手の自由を尊重すること。
相手を説得することよりも、
相手が自分で選べること。
そんな姿勢を大切にできたら素敵だなと思います。
なぜなら、本当に人を尊重するということは、

不足すると、人はなぜ踊らされるのか
最近、「ビニール手袋が不足するかもしれない」という話を聞きました。
実際、遠い親戚の方から、「不足するかもしれないから」とビニール手袋を少し分けていただきました。
もちろん、その気持ちはとてもありがたかったです。
ただ同時に、私はふとこう思いました。
「そんなに騒ぐことなのだろうか?」と。
思い返せば、これまでもいろいろなものが「不足する」と言われてきました。
お米、マスク、トイレットペーパー、ゴミ袋……。
すると、それまでそこまで重要視されていなかったものまで、
急に“とても大切なもの”に見え始め、
人々は不安になり、買いだめを始めます。
でも、その光景を見ていると、私は時々思うのです。
人は、「不足」という言葉に踊らされすぎていないだろうか、と。
コロナの時、私自身も不安を感じました。
何が本当なのかよく分からない状態でしたし、
「マスクがなくなる」と言われれば焦りもしました。
でも、結果的には、当初言われていたほど
極端な状況にはならなかった部分もありました。
そして何より、その過程で
たくさんの工夫や代替案、新しい商品も生まれていきました。
歴史を見ても、不足が起きれば、
必ず誰かが新しい方法を考えます。
企業が代替品を開発したり、
今までになかった発明が生まれたり、
むしろ従来より便利なものが生まれることだってある。
人間には、本来それだけの
知恵や創造性があるのだと思います。
だから私は、
「これがないと絶対ダメ」という考え方に、
少し寂しさを感じます。
もちろん、備えは大切です。
不安になること自体も自然なことです。
だけど、
「みんながやっているから」
「みんなが買っているから」
という理由だけで流されてしまうと、
自分で考える力を手放してしまうことにもつながる気がするのです。
本当に必要なのか。
他の方法はないのか。
工夫できることはないのか。
そうやって、一度立ち止まって自分で考えること。
それは、ただの節約や買い物の話ではなく、
「自分の人生の舵を誰が握るのか」ということにもつながっている気がします。
私は、安心というものは、
外側の物だけが与えてくれるものではないと思っています。
もちろん、物に助けられることもあります。
でも最終的に、
「大丈夫。考えればきっと道はある」
そう思える力こそが、
本当の安心の種なのではないでしょうか。
安心の鍵は、外だけではなく、
自分の内側にもある。
私はそんなふうに思っています。

舌切り雀は「得したら幸せ」という話なのかな
「損したくない」
「得したい」
そんなことを考えていた時に、
ふと昔話の
『舌切り雀』を思い出しました。
優しいおじいさんが、
舌を切られた雀を助けます。
すると雀は、
自分たちの家へおじいさんを招待して、
ごちそうでもてなしてくれました。
帰る時に雀たちは、
「大きなつづらと、小さなつづら、
どちらを持っていきますか?」
と聞きます。
するとおじいさんは、
「私は小さいもので十分ですよ」
と言って、
小さなつづらを選びました。
そして家に帰って開けてみると、
中には金銀財宝が入っていた。
それを聞きつけた、
雀の舌を切った意地悪なおばあさんは、
「自分も金銀財宝が欲しい」
と思って雀の家へ向かいます。
でも、
おもてなしを楽しむことには興味がなく、
頭の中は、
「大きなつづらには、もっと宝が入っているはず」
ということでいっぱいです。
そして大きなつづらを持ち帰ります。
けれど、
開けてみると、
中に入っていたのはお化けたちでした。
子どもの頃は、
「欲張るとダメなんだな」
くらいに読んでいた気がします。
でも大人になって改めて考えると、
この物語って、
単純に
「良いことをしたら得をする」
という話ではないように感じます。
むしろ、
“損得に囚われすぎると、
本当に大切なものを見失う”
そんな話にも思えるんですよね。
意地悪なおばあさんは、
「もっと得したい」
「大きいほうが価値がある」
という気持ちに飲み込まれていました。
でもその結果、
本当に欲しかったものとは
逆のものを持ち帰ることになった。
これって、
現代でもよくあることかもしれません。
損したくなくて辞められない。
もっと得したくて無理をする。
周りより良く見られたくて頑張り続ける。
そうしているうちに、
自由さや、
安心感や、
自分らしさのほうを失ってしまうこともある。
逆に、
小さなつづらを選んだおじいさんには、
「これで十分ですよ」
という感覚がありました。
あれは、
“足りない”ではなく、
“満ちている”感覚だったのかもしれません。
その場のつながりや、
“今ここ”の豊かさを感じて
だからこそ、
豊かさが自然と巡ってきた。
そんなふうにも感じます。
昔話って、
子どもに読み聞かせるものでもありますが、
大人になってから読むと、
また違う景色が見えるものなんですね。
損したくないと思っているけれど
人って、
「損したくない」という氣持ちを
強く持っているように感じます。
わたし自身も、
そう感じることがあります。
でも最近、
それって本当に
“自分自身の氣持ち”なのかな?
と思うようになりました。
子どもの頃から、
「失敗しないように」
「ちゃんとやりなさい」
「チャンスは一回しかない」
「損しないように」
そんなふうに
教えられてきた人も
多いのではないでしょうか。
すると、
失敗=悪いこと
損をする=良くないこと
そんな感覚が
自然と心の中に
入っていくのかもしれません。
だから人は、
なんとか損失を回避しようとする。
サンクコストも、
そのひとつなのだと思います。
けれど、
よく考えてみると、
人生の最後に、
「あなたは得した量が多かったので賞をあげます」
とか、
「損した量が多かったのでペナルティです」
そんなことって、
別に無いんですよね。
損したか、得したか。
それって実は、
人生全体で見た時には
わからないものなのかもしれません。
一見「損」に見えた出来事が、
あとから大切な経験になることもある。
逆に、
「得した」と思っていたことが、
自分を縛ることもある。
だから、
本当の意味での損得なんて、
簡単にはわからないんですよね。
そしてわたしは、
「損したくない」
という氣持ちの中には、
“他人の目線”も
含まれているのではないかと感じています。
損をしたら、
「あの人、失敗したね」
と思われそうで怖い。
逆に得をしたら、
少し誇らしくなったり、
誰かに話したくなったりする。
もちろん、
それが悪いわけではありません。
でも、
もしそこに
他人からどう見られるか
という氣持ちが強く入っているなら、
わたしたちは、
“自分の本音”よりも、
“周りからどう見えるか”
を基準に
選んでしまっていることも
あるのかもしれません。
だから最近は、
「損していないか?」
ではなく、
「わたしは本当はどうしたい?」
という感覚を、
大切にしたいと思っています。
人生は、
損得の点数を競うものではなくて、
どんな時間を過ごしたか、
どんな気持ちで生きたか、
そちらのほうが
ずっと大切なのかもしれません。
サンクコストを抱えていると、夢実現が難しくなる
これは、実際にあることだと感じています。
サンクコストとは、
「損失回避」の心理とも言われるもので、
時間やお金をかけた分、
「失敗だった」と認めたくなくて、
なんとか取り戻そうとしてしまうことです。
これは、現実が前に動きにくくなる原因のひとつでもあります。
なぜなら、
「元を取った」と納得できるまで、
そこに留まり続けてしまうからです。
これ、わたし自身も
よくやってしまいがちなことです。
はじめは、
「これ、やりたい」
「楽しそう」
「欲しい」
そんな氣持ちで始めます。
けれど、続けていくうちに、
「思っていたのと違った」
「つまらない」
「使いにくい」
そんな気持ちになることがあります。
そういう時に、
スッと次へ進めれば問題はないのですが、
「せっかくやったのに」
「高かったから」
「まだ新しいし」
そんな思いが湧いてきます。
そして、もう氣持ちはそこにないのに、
なんとか損を回収しようとしてしまうんですね。
楽しくもない。
本当はやりたくもない。
それなのに、渋々続けてしまう。
面白さがないから時間もかかるし、
進みも悪くなります。
眉をひそめながら過ごす時間が増えていく。
その時の「やる理由」は、
未来の自分のためではなく、
「元を取るため」になっています。
けれど、そうして頑張ったとしても、
大きな達成感があるわけではなく、
「やれやれ…」という気持ちになるだけだったりします。
そして、その間、
サンクコストにエネルギーを注いでいる分、
夢実現への道のりが
止まってしまうこともあります。
これは、本当にもったいないことだと思うんです。
損を取り戻そうとする時間を、
夢を叶えるために使えたなら、
充実感も、喜びも、
きっと圧倒的に違うはずだから。
それでも、
わかっているのに悔しくて、
繰り返してしまうことがある。
それもまた、人間なんですよね。
だからわたしは、
「これ、サンクコストかもしれないな」と感じた時、
損をしていることに意識を向けるのではなく、
できるだけ早く損切りをして、
夢実現へ意識を切り替えるようにしています。
それは、
「元を取ること」より、
「夢が叶うこと」のほうが、
わたしにとってずっと嬉しいからです。^^
魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy
現状を変えたいなら、まずはここから
どうにかしたい悩みのヒーリングセッション
「コミュニティには“空氣”がある」
日々生活している中で、
私たちは様々なグループやコミュニティに所属しています。
身近なもので言えば、
家族、友達、学校のクラス、部活動、習い事、趣味の集まりなど。
けれど、コミュニティというのは、
ただ人が集まっているだけではありません。
そこには、それぞれ独自の“空気”や“臨場感”があります。
臨場感というのは、
その世界をリアルに感じる感覚のこと。
その中に長く身を置いていると、
その世界の価値観やルールが、まるで絶対的なもののように感じられることがあります。
たとえ少し不自然なルールだったとしても、
その中にいると、それが普通に思えてしまうこともあります。
けれど、一歩離れて俯瞰してみると、
そのコミュニティ全体の雰囲気や、
暗黙のルール、人の動きなどが見えてきます。
そして時には、
そのコミュニティがこれからどこへ向かっていくのかまで、感じ取れることもあります。
もし、
「理想の人生を生きたい」
「夢を叶えたい」
そんな想いがあるのなら、
今自分が身を置いている環境が、
本当に自分の成長に合っているのかを、静かに観察してみることも大切なのかもしれません。人との繋がりは人生を豊かにしてくれる。
だからこそ、どんな世界に身を置くのかは、とても大切なのかもしれません。
そして、自分の人生の舵だけは、誰かに預けすぎないこと。
時々立ち止まり、自分自身の心で感じ、考え、選び直していく。
それが、本当に自分の人生を生きるということなのかもしれません。

感情を吐き出していい
「感情を全部吐き出しなさい」
これは、
わたしがとても辛かった時に
言われた言葉でした。
もう、だいぶ昔のことです。
ショックな出来事があり、
氣持ちも動転していて、
吐き出したい感情は
たくさんあるはずなのに、
結局、
自分が本当に伝えたかった言葉は、
うまく出てきませんでした。
だからこそ、
苦しさを長く引きずりました。
「誰も、わたしの氣持ちなんて
わかってくれない」
そんな孤独も感じていました。
現代に生きるわたしたちの多くは、
「我慢すること」
を美徳として教えられてきました。
だから、
自分の思いや感情を抑え込むこと、
忘れたふりをすることに、
慣れてしまっている人も多いのだと思います。
そのため、
感情を感じていても、
それを“言葉”に変換することが
上手にできないことがあります。
喉まで出かかっているのに、
言葉にならない。
そんな感覚です。
わたしは昔から、
どんなに短い時間でも、
一緒に過ごす人には
氣持ちよく過ごしてほしい、
そんな思いを持っていました。
だから、
相手にイヤなことを言われても、
その場の空氣を壊さないように、
にこやかに接していることが
多かったのです。
そして後から、
いつもの“反省会”が始まります。
時間が経ってから、
その時の出来事を思い返して、
「あの時、本当はこう言いたかった」
という言葉が、
あとから溢れてくるのでした。
「どうして、あの時に
言えなかったんだろう」
そうやって、
悔しくなったり、
自分を責めてしまったりすることもありました。
そして最後には、
「今さら言っても仕方ないよね…」
と、
モヤモヤした氣持ちだけが残る。
そんな経験を、
何度もしてきました。
子どもの頃、
自分の氣持ちや思ったことを伝えた時に、
大人の都合で、
「わがままを言わないで」
と言われた経験がある人も
多いのではないでしょうか。
その積み重ねによって、
自分の素直な感情そのものを、
“わがまま”だと思ってしまう。
そんなこともあるのだと思います。
わたしは、
本音や本心を大切にしています。
それでも、
咄嗟の場面では
言葉が出てこなくて、
あとから悔しい思いをすることがあります。
でも、
わたしたちの感情は、
決して無駄なものではありません。
ちゃんと自分を感じているからこそ、
感情は生まれるのです。
怒りも、
悲しみも、
苦しさも、
人間が生きるために
必要だから存在しているのだと、
わたしは思っています。
怒っているなら、
怒りを。
イライラしているなら、
イライラを。
相手にぶつけるのではなく、
“ちゃんと感じて、伝えること”。
それは、
とても大切なことです。
そしてそれは、
心の健全さを守ることにも
繋がっていると思います。
抑圧や我慢ばかりを続けていたら、
人は壊れてしまいます。
「怒るなんて大人げない」
そんなことはありません。
感情を押し殺し続けることの方が、
ずっと苦しいのです。
喜びは表現していい。
感謝も伝えていい。
なのに、
ネガティブな感情だけは
出してはいけないのでしょうか。
そんなふうに抑え続けていたら、
心も体も、
苦しくなってしまいます。
感情は、
どんなものであっても、
適切な方法で、
上手に外へ出してあげることが大切です。
それは、
自分を大切にすること。
そして、
自己信頼を育てることにも
繋がっていくのだと思います。
激動の現代では、
「一人でもやっていける」
という芯の強さが、
必要なのだと思います。
群れていないと
立ち上がれないようでは、
本当の意味では弱い。
もちろん、
無理に強がる必要はありません。
それはただ、
自己信頼が育っていれば、
「一人でも大丈夫」
と、自然に思えるようになる
ということ。
それは、
自分自身に深い信頼を
持てているからです。
もちろん、
一つの団体やグループの中で、
一人ひとりが
個性や得意分野を持ちながら
支え合っているのであれば、
それは「群れている」のではなく、
バランスの取れた
健やかなチームなのだと思います。
でも私は、
どんなチームに所属していても、
「一人でも立っていられる力」
は必要だと感じています。
だからこそ、
「一人でもやっていける」
という芯を持っている人は、
どんな環境にも柔軟に対応し、
自分らしく生きていけるのだと思います。
そして、
最も小さな団体は
「家族」です。
まずは、
大切なパートナーと自分自身で、
二人三脚で歩んでいけること。
そのためにも、
一人で立ち上がれる力を
育てていくことが
大切なのだと思っています。
この力を育てるためには、
丁寧に自分と向き合うこと、
そして、
ゆったりと安心できる環境や時間が必要です。
日々の暮らしの中で、
私たちは少しずつ、
「一人でも立ち上がれる自分」
を育てていくことができます。
安心安全な場所で、
理想の人生を生きるために。
まずは、
自己信頼を育てていきましょう。幸せの魔法使い☆まみ
性を通して本来の自分に還る
心・身体・性を整え、人生を再構築する
電話番号:08053094890
営業時間:10:00~17:00
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