まっさらな瞳

こんにちは。

このブログ「まっさらな瞳」へようこそ。

 

ここは、あなたが本来の自分を思い出し、心をオープンにして、毎日を軽やかに、そして自分らしく生きるためのヒントをお届けする場所です。

 

私たちは生まれたとき、誰もが純粋な瞳を持っています。その瞳の奥には、ありのままの自分がいて、世界と柔らかくつながりながら輝く力があります。けれど、日々の生活や人との関わりの中で、その純粋さや自由さを忘れてしまうこともあります。

 

このブログでは、

 

自己信頼や内なる叡智を思い出すこと

 

自分らしい生き方を育む気づき

 

夢を叶えながら、心地よく輝く日々のヒント

 

などを、私自身の体験や講座での学びとともにお届けしていきます。

 

ヒーラー養成講座やセクシャルウェルネスなどの学びも、この「真っさらな瞳」という視点で統合され、あなたの中の本来の力を呼び覚ますきっかけになれば嬉しいです。

 

さあ、一緒に、目を覚ましたばかりの赤ちゃんのような、真っさらな瞳で、毎日を見つめてみませんか。


以前のわたしは、


 

「これくらい我慢しなきゃ。」

 

「わたしの心が狭いのかな。」


 

そんなふうに考えていました。


 

 

でも、ある時気づいたのです。

 

 

問題は、「我慢できるかどうか」

ではありませんでした。

 

 

 

人は、一日に何度も小さな中断を経験すると、

そのたびに意識が切り替わります。

 

 

 

読書をしていても、

 

眠っていても、

 

仕事に集中していても、

 

突然その流れが止まる。

 

 

 

また元に戻ろうとすると、

意外とエネルギーを使います。

 

 

 

一つひとつは小さな出来事でも、

 

それが毎日積み重なると、

 

 

「なんとなく疲れる。」

 

「やる気が出ない。」

 

「家にいても休めない。」

 

 

そんな状態になることがあります。

 

 

 

 

住環境とは、

 

ただ雨風をしのぐ場所ではありません。

 

 

 

自分のエネルギーを守り、

回復させる場所でもあるのです。

 

 

 

だからこそ、

 

「どれだけ不要なことでエネルギーを使っているのか。」

 

そこに気づくことも、
住環境を見直す第一歩なのだと思います。







魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

 

 

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから

どうにかしたい悩みのヒーリングセッション





安心できる家とは、「自然な自分」でいられる家。



「住環境」と聞くと、多くの方は

 

・家の広さ

・家賃

・日当たり

・築年数

・インテリア

 

そんなことを思い浮かべるかもしれません。

 

 

もちろん、それらも大切です。

 

 

 

でも、わたしが考える住環境は少し違います。

 

 

それは、

 

安心して自然な自分でいられる場所。

 

ということです。

 

 

 

 

例えば、

 

今日はゆっくり眠ろう。

 

今日は本を読もう。

 

今日は何もしない日にしよう。

 

 

そんなふうに思っていても、

 

 

騒音が気になったり、

 

突然インターホンが鳴ったり、

 

何度も訪問があったりすると、

 

その瞬間、自分の時間は止まってしまいます。

 

 

 

もちろん、

インターホンを押した人に悪気があるとは限りません。

 

生活音も、お互い様な部分はあります。

 

 

でも、「悪い人がいるかどうか」と、

「安心して暮らせるかどうか」は、別の話です。

 

 

わたしたちの心や体は、

安心できる環境だからこそ休まり、回復していきます。

 

 

 

自然な自分で過ごせること。

 

実は、それこそが住環境の大切な条件なのだと、

わたしは感じています。





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住環境は、ただ住むだけの場所ではない。

 

 

 

 

わたしはこれまで、実家や賃貸など、

さまざまな住環境で暮らしてきました。

 

その中で、

強く感じるようになったことがあります。

 

 

 

それは、住環境は

「ただ住むための場所」ではないということです。

 

 

 

住まいとは、

心と体を安心して休める場所。

 

疲れた心と体を回復させ、

エネルギーを蓄え、

また新しい一歩を踏み出すための土台となる場所なのだと思っています。

 

 

 

だからこそ、

家にいても誰かの出入りで落ち着かなかったり、騒音が続いたり、

自分らしい生活ができない環境では、

心も体も十分に休まりません。

 

 

 

安心できる場所がないということは、

想像以上に人生へ影響を与えることがあります。

 

 

 

 

今日は、実際にわたしが体験した

出来事をひとつお話しします。

 

これは、実家で暮らしていた頃のことです。

 

 

 

わたしには、とても可愛い姪っ子がいます。

 

生まれた頃から一緒に過ごす時間が多く、

成長して元気に走り回れるようになった頃でした。

 

ある日、両親が姪っ子の面倒を見てくれていました。

 

その日は、久しぶりにゆっくり読書をしたり、

勉強をしたりしようと、

とても楽しみにしていた日でした。

 

 

ところが、その時間になると、

わたしの部屋の真上にある広いスペースで遊ぶことになったようでした。

 

 

実家は木造だったため、

走るたびに足音が大きく響きます。

 

 

耳栓も試しましたが、

ほとんど効果はありませんでした。

 

 

楽しそうに走り回る音や笑い声が響くたびに集中が途切れ、

本を読もうとしても内容が頭に入ってきません。

 

 

結局、その日楽しみにしていた読書や勉強の時間は、

思うように過ごすことができませんでした。

 

 

 

もちろん、姪っ子が悪いわけではありません。

 

 

 

元気に遊ぶことは、

子どもにとって自然なことです。

 

 

ただ、その出来事を通して改めて感じたのは、

「安心して自分の時間を過ごせる環境」があることは、

決して当たり前ではないということでした。

 

 

 

住環境は、毎日の睡眠や休息だけでなく、

学びや仕事、創造性、

そして夢へ向かう力までも支えてくれます。

 

 

人生を変えようと頑張る前に、

まずは自分が安心してエネルギーを回復できる場所があること。

 

 

それが、人生の土台なのだと、
わたしは今、強く感じています。



当時のわたしは、この出来事が人生にどれほど影響していたのか、
まだ気づいていませんでした。

ですが今振り返ると、
住環境は人生の土台そのものだったのだと分かります。






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私は長い間、告白というものを

とても大きなものだと思っていた。

 

 

好きな人に気持ちを伝える。

 

 

 

たったそれだけのことなのに、

まるで人生が決まるかのような感覚があった。

 

 

 

 

もし断られたらどうしよう。

 

何とも思っていないと言われたらどうしよう。

 

気まずくなったらどうしよう。

 

 

そんな不安や恐れがたくさんあった。

 

 

 

 

だから、伝えたいのに伝えられない。

 

好きなのに言えない。

 

そんなこともあった。

 

 

 

 

でも最近、告白についての捉え方が少し変わった。

 

 

 

私は以前、

 

「告白」と「返事」

 

をセットにして考えていたように思う。

 

 

 

 

好きですと伝えたら、

 

相手も好きですと言ってくれるか。

 

付き合えるのか。

 

断られるのか。

 

その結果まで含めて告白だと思っていた。

 

 

 

だから怖かった。

 

 

 

 

でも今は、少し違う。

 

 

 

 

告白とは、

 

 

ただ自分の気持ちを伝えること。

 

 

 

 

それだけで十分なのではないかと思うようになった。

 

 

 

私はあなたのことが好きです。

 

そう感じています。

 

 

 

ただ、その事実を伝える。

 

それだけでもう完了しているのではないだろうか。

 

 

 

もちろん、相手が同じ気持ちだったら嬉しい。

 

好きですと言い返してくれたら、

とても幸せだと思う。

 

 

 

でも、それは相手の自由だ。

 

 

 

私が決められることではない。

 

だから、返事までを

自分のものにしようとしなくていい。

 

 

 

 

もし返事が怖いなら、

 

「返事はいりません。ただ私の気持ちだけ受け取ってください」

 

そう伝えるのも一つの形なのかもしれない。

 

 

 

 

最近、そんなふうに思うようになった。

 

 

 

 

 

そして、もう一つ気づいたことがある。

 

 

 

それは、人を好きになること自体が

とても特別なことだということだ。

 

家族や友人のような人としての好意とはまた違う。

 

 

 

 

恋愛として誰かを好きになる。

 

心が動く。

 

気になる。

 

会いたくなる。

 

話したくなる。

 

 

 

そんな相手に出会うことは、

実はそう何度もあることではない。

 

 

 

だから私は、その気持ちそのものを大切にしたいと思う。

 

 

 

 

好きになれたこと。

 

心が動いたこと。

 

その人の存在によって、

自分の世界が少し変わったこと。

 

 

 

それだけでも十分に尊いことだと思う。

 

 

 

 

以前の私は、

 

告白を成功か失敗かで見ていた。

 

 

 

 

でも今は違う。

 

 

 

勇気を出して伝えられた。

 

自分の本音を言葉にできた。

 

その人を好きになれた。

 

 

 

それだけでも十分に価値があると思う。

 

 

 

 

好きという気持ちは、

相手から何かを返してもらうためだけに存在するものではない。

 

 

自分の心が動いた証でもある。

 

 

 

 

だから告白は、

 

人生を左右する恐ろしいものではなく、

 

自分の気持ちを大切に表現するものなのかもしれない。

 

 

 

そしてもし、相手も同じ気持ちだったなら。

 

それは奇跡のような出来事として、

ありがたく受け取ればいい。

 

 

 

でも、それがなくても、

 

好きになれたこと。

 

好きだと伝えられたこと。

 

その喜びは、誰にも奪われないのだと思う。






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「承認欲求」という言葉を聞くと、

どんなイメージを持つだろう。

 

 

 

認められたい。

 

褒められたい。

 

評価されたい。

 

 

 

 

現代では、承認欲求という言葉が

良い意味で使われることもあれば、否定的な意味で使われることもある。

 

 

 

 

「承認欲求が強い人」

 

という言葉には、どこか未熟さや

依存のようなニュアンスが含まれることもある。

 

 

 

 

でも最近、私はふと思った。

 

承認欲求には、もともとの形と、

後から変化した形があるのではないだろうか、と。

 

 

 

 

小さな子どもはよく、

 

「見て見て!」

 

と言う。

 

 

絵を描いた時。

 

積み木ができた時。

 

走れた時。

 

何かを発見した時。

 

嬉しそうに駆け寄ってくる。

 

 

 

大人はそれを見て、

 

「褒めてほしいんだね」

 

と言うかもしれない。

 

確かにそういう側面もあるだろう。

 

 

 

でも私は最近、

それだけではない気がしている。

 

 

 

子どもは、

 

「認めてほしい」

 

というより、

 

 

「嬉しい!」

 

「楽しい!」

 

「できた!」

 

「一緒に見て!」

 

そんな感覚なのではないだろうか。

 

 

 

 

そこには、

自分の価値を証明したいという思いよりも、

 

 

自分が感じた喜びを

誰かと分かち合いたいという気持ちがあるように感じる。

 

 

 

そして、その喜びを

一緒に喜んでもらえた時、さらに嬉しくなる。

 

 

 

本来の承認欲求とは、

もしかするとそういうものなのかもしれない。

 

 

 

ところが、私たちは成長するにつれて、

少しずつ社会のルールを学んでいく。

 

 

 

いい点数を取る。

 

大会で結果を出す。

 

賞をもらう。

 

いい学校に入る。

 

資格を取る。

 

肩書きを持つ。

 

 

 

 

そうすると、いつの間にか

 

「何をしたいか」

 

よりも、

 

「何をすれば認められるか」

 

を考えるようになることがある。

 

 

 

すると、承認欲求の質が変わる。

 

本来は、

 

「見て!楽しいよ!」

 

だったものが、

 

「認めてほしい」

 

になり、

 

 

 

さらに、

 

「認められなければ価値がない」

 

へと変わっていくこともある。

 

 

 

 

もちろん、努力することが悪いわけではない。

 

目標を持つことも素晴らしいことだ。

 

 

 

けれど、それが本当に

自分の望みから生まれたものなのか。

 

それとも、認められるために選んだものなのか。

 

そこには大きな違いがあるように思う。

 

 

 

本当にやりたいから挑戦する。

 

好きだから学ぶ。

 

楽しいから続ける。

 

 

 

その結果として評価されることは、

とても自然なことだ。

 

 

 

でも、

 

認められるために頑張る。

 

価値があると思われるために努力する。

 

存在を証明するために結果を求める。

 

 

 

そんな生き方になると、

自分の本音から少しずつ離れていってしまう。

 

 

 

だから私は最近、

承認欲求そのものが悪いのではないと思っている。

 

むしろ、本来の承認欲求は大切なものだ。

 

 

 

嬉しいことを共有したい。

 

感じたことを伝えたい。

 

誰かと喜びを分かち合いたい。

 

 

 

それは人が人として自然に持っている願いなのだと思う。

 

 

 

大切なのは、

 

認められたいから生きるのか。

 

自分の喜びを生きた結果として認められるのか。

 

その違いなのかもしれない。

 

 

 

もし自分の本音がわからなくなった時は、

 

「私は何を認めてほしいのだろう?」

 

ではなく、

 

「私は本当は何が好きなのだろう?」

 

と問いかけてみたい。

 

 

 

その答えの中に、
本来の自分らしさが隠れているような気がしている。






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以前の私は、知らず知らずのうちに

「自分じゃない自分」を持っていたように思う。

 

 

強く見られたい。

 

しっかりしていると思われたい。

 

優しい人と思われたい。

 

理解のある人でいたい。

 

 

 

そんなふうに、たくさんの

「こう見られたい自分」を抱えて生きていた。

 

 

でもある時、それがとても重くなった。

 

疲れてしまった。

 

 

そして、ふっと手を離した。

 

 

 

すると不思議なことに、

何かを失った感覚ではなく、

むしろ軽くなった感覚があった。

 

 

本来の自分に戻ったような感覚だった。

 

 

 

私はよく、「強さ」や「弱さ」

という言葉について考えることがある。

 

でも最近思うのは、

それらは絶対的なものではないということだ。

 

 

 

自分では弱みだと思っていることを、

誰かは魅力だと感じるかもしれない。

 

自分では強さだと思っていることを、

別の誰かは無理をしているように感じるかもしれない。

 

 

結局のところ、強さも弱さも、

その人の価値観の中で生まれるものなのだと思う。

 

 

だから、強くなろうとしなくていい。

 

弱さを隠そうとしなくていい。

 

 

ただ、自分に正直であればいい。

 

そんなふうに感じるようになった。

 

 

 

 

世の中にはたくさんの肩書きがある。

 

先生。

 

経営者。

 

専門家。

 

リーダー。

 

有名人。

 

 

肩書きを聞くだけで、

「すごい人だな」と感じることもある。

 

 

もちろん、その人が積み重ねてきた努力や経験には敬意を持ちたい。

 

 

 

けれど、肩書きそのものは情報に過ぎない。

 

それは目に見える実体ではない。

 

 

 

だから私は最近、

肩書きに圧倒されることが少なくなった。

 

 

そして、自分自身も

肩書きのために何かを目指したいとは思わなくなった。

 

 

 

 

もし本当にやりたいことがあって、

その結果として肩書きがついてくるのなら素敵だと思う。

 

 

 

でも、

 

「すごいと思われたい」

 

「認められたい」

 

「価値があると思われたい」

 

という理由で肩書きを追いかけると、

自分を見失ってしまう気がする。

 

 

 

本音で生きることは簡単そうで難しい。

 

 

 

 

なぜなら、自分の頭の中には

たくさんの他人が住んでいるからだ。

 

 

 

嫌われたくない。

 

弱いと思われたくない。

 

かっこ悪いと思われたくない。

 

 

そんな声が聞こえてくる。

 

 

すると、自分の本音ではなく、

その声に合わせた選択をしてしまう。

 

 

でも、それを続けていると疲れてしまう。

 

 

なぜなら、それは

本当の自分ではないから。

 

 

 

 

だから私は最近、

 

 

弱く見られてもいい。

 

かっこ悪く見られてもいい。

 

そう思っている。

 

 

 

完璧じゃなくていい。

 

立派じゃなくていい。

 

ただ、自分でいたい。

 

 

 

その方がずっと楽だし、

心も体も喜んでいる気がする。

 

 

 

 

何者かになろうとするよりも、

 

自分として生きる。



 

その方が、ずっと自然で心地いい。

 

最近はそんなふうに感じている。





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先日、ある話を聞いた。

 

 

 

飲食店を経営している男性がいて、その方には奥様がいる。

 

その男性いわく、

 

「うちの妻は、私が浮気をしてもいいと言っている」

 

のだそうだ。

 

さらに奥様は、

 

「私より素敵な女性だったら認めてあげる。もし本当にそんな人が現れたら離婚してあげる」

 

とも言っているらしい。

 

 

 

昔の私なら、

 

「なんて器の大きい人なんだろう」

 

と思っていたかもしれない。

 

 

 

けれど今の私は、少し違う見方をしている。

 

 

もちろん、本当に嫉妬をしない人もいると思う。

 

束縛を好まない人もいるし、

パートナーを一人の人間として尊重する人もいる。

 

 

だから、そのご夫婦がどうなのかは、私にはわからない。

 

 

 

ただ、その話を聞いていてふと思った。

 

人は時々、本音よりも恐れを選ぶことがあるのではないか、と。

 

 

 

「私より素敵な女性だったら認める」

 

という言葉の中には、比較が存在している。

 

 

私より上か下か。

 

勝ちか負けか。

 

選ばれるか選ばれないか。

 

 

 

もし本当に何も恐れがなければ、

そもそも比較する必要もないのかもしれない。

 

 

 

だから私は、その言葉の奥にあるものが少し気になった。

 

 

 

もしかしたら、

 

「嫉妬したくない」

 

「重い女と思われたくない」

 

「理解のある妻でいたい」

 

そんな思いもあるのかもしれない。

 

 

 

もちろん、これは私の想像でしかない。

 

 

正解は本人にしかわからない。

 

でも人は、本音をそのまま見せるよりも、

強く見える自分を選ぶことがある。

 

 

平気なふりをしたり。

 

余裕があるふりをしたり。

 

器が大きいふりをしたり。

 

 

それは弱いからではなく、

傷つくのが怖いからだ。

 

 

 

 

 

考えてみれば、

恋愛も同じかもしれない。

 

 

 

 

本当に好きな人がいても、

失恋が怖くて気持ちを伝えられないことがある。

 

振られたくないから、

無難な相手を選ぶこともある。

 

 

一人になる不安から、

好きではない相手と付き合うこともある。

 

 

 

私はそれを責めたいわけではない。

 

 

 

なぜなら、人はみんな怖いからだ。

 

 

 

拒絶されるのは怖い。

 

傷つくのは怖い。

 

失うのは怖い。

 

それが人間だと思う。

 

 

 

 

ただ私は、自分の本音だけは

見失いたくないと思っている。

 

怖くてもいい。

 

不安でもいい。

 

嫉妬してもいい。

 

 

 

でも、本当は何を感じているのかだけは、

自分で知っていたい。

 

そう思う。

 

 

 

人は強いようで弱い。

 

弱いようで強い。

 

 

 

本音で生きたいと思いながら、恐れにも支配される。

 

だからこそ、人間は面白い。

 

そして、その複雑さがあるからこそ、
人を理解することも、自分を理解することも、
一生終わらないのかもしれない。





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最近、自分とのつながりについて考えている中で、

ひとつ思い出した出来事がありました。

 

 

 

それは人間関係の中で感じた、

ある窮屈さについてです。

 

 

 

 

例えば、

 

AさんとBさんがいたとします。

 

 

 

 

二人は以前は仲が良かったけれど、

ある出来事をきっかけに関係がこじれてしまいました。

 

 

Aさんは傷つき、

 

「もうBさんとは仲良くできない」

 

と言っています。

 

 

 

 

私はAさんと仲が良く、信頼関係もあります。

 

 

一方で、Bさんとはまだ深い交流はありません。

 

 

でも、私はBさんに対して特に悪い印象もなく、

 

「どんな人なんだろう」

 

「もう少し話してみたいな」

 

そんな気持ちを持っていました。

 

 

 

 

この時、多くの人はどうするでしょうか。

 

 

 

 

Aさんの気持ちを考えて、

 

Bさんと距離を置くかもしれません。

 

 

 

私自身も長い間、

 

それが当たり前だと思っていました。

 

 

 

でもある時、

信頼している方に相談したことがあります。

 

 

 

すると、

 

「あなたがBさんと交流したいなら、交流していいと思う」

 

と言われました。

 

 

 

最初は驚きました。

 

 

でも続けてこう言われたのです。

 

「もしそのことでAさんが離れていくなら、それはあなたの責任ではない」

 

「大事なのは、あなたがどうしたいかだと思う」

 

その言葉を聞いた時、

 

私はほっとした反面、

 

強い罪悪感も感じました。

 

 

 

 

なぜなら私は、

 

どこかでこう思っていたからです。

 

「自分の気持ちを優先するのはわがままだ」

 

「相手が傷つく可能性があるなら我慢するべきだ」

 

「仲良くしたいと思っても、その選択はしてはいけない」

 

 

 

そんな思い込みです。

 

 

 

 

でも最近になって気づきました。

 

 

 

 

私は本当にAさんを大切にしていたのでしょうか。

 

 

 

それとも、

 

嫌われたくなかっただけなのでしょうか。

 

 

 

 

 

もちろん相手への配慮は大切です。

 

でも、

 

配慮と自己犠牲は同じではありません。

 

 

 

 

私は長い間、

 

その違いが分からなくなっていたように思います。

 

 

 

 

そして今回さらに気づいたことがあります。

 

 

 

それは、

 

私の中にずっと隠れていた問いです。

 

 

 

 

「私は自由でいてもいいのだろうか」

 

 

 

 

この問いはとても不思議でした。

 

 

 

 

なぜなら私は、

 

この問いそのものを考えないようにしていたからです。

 

 

 

自由になりたい。

 

自由に選びたい。

 

そんな気持ちが出てきても、

 

すぐに打ち消していました。

 

 

 

「それはわがままだ」

 

「そんなことを考えてはいけない」

 

「答えはもう出ている」

 

 

 

そうやって自分で蓋をしていたのです。

 

 

 

でも本当は違いました。

 

 

 

私は誰かを傷つけたいわけではありません。

 

裏切りたいわけでもありません。

 

 

 

ただ、

 

自分が感じたことを大切にしたかった。

 

自分がどうしたいのかを知りたかった。

 

 

 

それだけだったのです。

 

 

 

今振り返ると、

 

私が恐れていたのは自由そのものではなく、

 

 

自由になることで

誰かを傷つけるかもしれないという不安

だったのかもしれません。

 

 

 

でも人生は一人ひとりのものです。

 

選択もまた一人ひとりのものです。

 

 

 

私は私の人生を生きる。

 

相手は相手の人生を生きる。

 

 

 

その中でお互いを尊重する。

 

 

 

それは決して冷たいことではなく、

 

むしろ健全な信頼なのかもしれません。

 

 

 

 

そして私は今、

 

少しずつ思えるようになってきました。

 

 

 

 

自由でいることは、

 

誰かを大切にしないことではない。

 

自分を大切にすることでもあるのだと。

 

 

 

もしかすると、

 

自分とのつながりとは、

 

こういう小さな選択の中で育っていくものなのかもしれません。






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私はこれまで、

 

「セクシャルウェルネスを広めたい」

 

そう思って活動してきました。

 

 

 

そして今も、その思いは変わっていません。

 

 

 

私は自分のことを、

 

セクシャルウェルネスメンターと名乗っています。

 

 

 

人から仕事を聞かれたら、

 

「セクシャルウェルネスメンターをしています」

 

 

そう答えます。

 

 

 

 

でも正直に言うと、

 

私は長い間、どこかで立ち止まっていました。

 

 

 

 

発信したいのに進めない。

 

伝えたいのに言葉にならない。

 

 

そんな感覚がありました。

 

 

 

 

 

なぜだろう。

 

そう思いながらも、

なかなか答えが見つかりませんでした。

 

 

 

 

振り返ると、

 

私はどこかで、

 

セクシャルウェルネスという

言葉に対する人の反応を気にしていたのかもしれません。

 

 

 

 

性について学んでいる人。

 

エロスが好きな人。

 

快感を追求する人。

 

 

 

 

そんなふうに受け取られることへの抵抗感もありました。

 

 

 

 

 

でも今は思います。

 

 

 

どう受け取るかは相手の自由です。

 

 

 

 

興味があれば聞いてくれるでしょう。

 

興味がなければ通り過ぎるでしょう。

 

 

 

それは相手の選択です。

 

 

 

 

 

だから私は、

 

誤解されないように説明し続ける必要も、

 

証明し続ける必要もないのだと思います。

 

 

 

 

 

ただ、自分が大切にしていることを

誠実に伝えていけばいい。

 

 

 

そう思えるようになりました。

 

 

 

 

 

そして最近、大きな気づきがありました。

 

 

 

 

私はセクシャルウェルネスを伝えたいだけではなかったのです。

 

 

 

 

 

 

私が本当に伝えたかったのは、

 

「自分とのつながり」

 

でした。

 

 

 

 

自分の気持ちを感じること。

 

自分の本音に気づくこと。

 

自分を信頼すること。

 

自分を理解すること。

 

 

 

 

 

私はずっと、

 

そこを伝えたかったのです。

 

 

 

 

 

セクシャルウェルネスも、

 

NVCも、

 

ヒーラー養成講座も、

 

 

全部そのための入口でした。

 

 

 

 

 

でも私はいつの間にか、

 

入口の説明ばかりをしようとしていました。

 

 

 

 

本当に見せたかった景色ではなく、

 

入口そのものを説明しようとしていたのです。

 

 

 

 

だから苦しかったのかもしれません。

 

だから進めなかったのかもしれません。

 

 

 

 

今回ようやく気づきました。

 

 

 

 

私が届けたいのは、

 

自分とのつながり。

 

 

 

 

自己理解。

 

自己信頼。

 

 

 

そして、

 

「私は私でいていい」

 

という感覚です。

 

 

 

 

それを伝えるために、

 

私はセクシャルウェルネスという入口を選んでいる。

 

 

 

 

そう考えたとき、

 

すべてが一本の線でつながりました。

 

 

 

 

 

今思うのです。

 

私は新しい何かを見つけたのではありません。

 

 

 

 

 

ずっと大切にしていたものを、

 

ようやく自分自身に認めることができたのだと思います。

 

 

 

 

 

だから今、

 

とても不思議な感覚があります。

 

 

 

 

何かを達成したわけではありません。

 

何かが完成したわけでもありません。

 

 

 

 

 

それなのに、

 

やっとスタート地点に立てた気がするのです。

 

 

 

そして今まで開けようとしていた扉ではなく、

 

 

 

本当に開けたかった扉を、

 

ようやく開け始めた気がしています。






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私は長い間、

 

自分と向き合うことが少し怖かったように思います。

 

 

 

 

なぜなら、

 

向き合った先には醜い自分がいる。

 

 

 

 

そんな話を聞くことがあったからです。

 

 

 

 

 

嫉妬。

 

怒り。

 

執着。

 

認めたくない感情。

 

 

 

 

 

自分と向き合うとは、

 

そういったものを見ることだと思っていました。

 

 

 

だから怖かったのです。

 

 

 

 

 

でも今回、自分の気持ちと向き合ってみて思いました。

 

 

 

私が出会ったのは、

 

醜い自分ではありませんでした。

 

 

 

とても素直な気持ちでした。

 

 

 

 

本当はつながりたかった。

 

本当は大切にされたかった。

 

本当は寂しかった。

 

 

そんな純粋な思いでした。

 

 

 

 

そして私は、もう一つ気づきました。

 

たとえ人が「醜い感情」と呼ぶようなものがあったとしても、

 

それは本当に醜いのでしょうか。

 

 

 

 

もしかすると、

 

ただその人の内側から生まれた、

 

ありのままの気持ちなだけなのかもしれません。

 

 

 

 

そこに良いも悪いもなく、

 

高いも低いもなく、

 

ただ存在しているだけ。

 

 

 

 

私たちが勝手に名前を付けているだけなのかもしれません。

 

 

 

 

今回、自分の気持ちに触れて感じたのは、

 

自分を裁く必要はないということでした。

 

 

 

理解することはできる。

 

感じることもできる。

 

 

 

でも裁かなくていい。

 

 

 

 

自分の本音は、

 

誰かに見せるためのものではありません。

 

 

 

誰かに評価してもらうためのものでもありません。

 

 

 

まずは自分自身が出会うためのものです。

 

 

 

 

 

そして私は今、

 

以前よりもずっと自然な気持ちで、

 

自分と向き合える気がしています。

 

 

 

怖いから向き合うのではなく、

 

もっと知りたいから向き合う。

 

 

 

直したいから向き合うのではなく、

 

理解したいから向き合う。



 

そんなふうに、
自分との関係が少し変わった気がしています。







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