まっさらな瞳

こんにちは。

このブログ「まっさらな瞳」へようこそ。

 

ここは、あなたが本来の自分を思い出し、心をオープンにして、毎日を軽やかに、そして自分らしく生きるためのヒントをお届けする場所です。

 

私たちは生まれたとき、誰もが純粋な瞳を持っています。その瞳の奥には、ありのままの自分がいて、世界と柔らかくつながりながら輝く力があります。けれど、日々の生活や人との関わりの中で、その純粋さや自由さを忘れてしまうこともあります。

 

このブログでは、

 

自己信頼や内なる叡智を思い出すこと

 

自分らしい生き方を育む気づき

 

夢を叶えながら、心地よく輝く日々のヒント

 

などを、私自身の体験や講座での学びとともにお届けしていきます。

 

ヒーラー養成講座やセクシャルウェルネスなどの学びも、この「真っさらな瞳」という視点で統合され、あなたの中の本来の力を呼び覚ますきっかけになれば嬉しいです。

 

さあ、一緒に、目を覚ましたばかりの赤ちゃんのような、真っさらな瞳で、毎日を見つめてみませんか。


何か新しいことに興味を持ったとき、

 

「やってみたい!」

 

と心が動くことがあります。

 

面白そう。

 

もっと知りたい。

 

なんだかわからないけれど、すごく惹かれる。

 

そんな小さな情熱の芽が、ふっと自分の中から出てくる。

 

でも、そのすぐ後に、

 

「ちゃんと続けられるかな?」

 

「また途中で飽きるんじゃない?」

 

「最後までできる?」

 

そんな言葉が出てきて、せっかく芽を出した「やってみたい」を、自分で引っ込めてしまうことがあります。

 

 

 

 

 

 

「続けられた経験」は、自信になることがある

 

 

子どもの頃に始めた習い事が、

 

自分の「好き」「面白い」「楽しい」「やりがいがある」と合っていて、

 

気がついたら何年も続いていた。

 

そんな経験があったら、

 

「あんなに長く続けられた」

 

「少しずつできるようになった」

 

「私にもできるんだ」

 

という自信につながることがあると思います。

 

継続したことで上達したり、できなかったことができるようになったり。

 

そういう経験から得られるものは、たくさんあります。

 

だから私は、継続することそのものを否定したいわけではありません。

 

ただ、反対の場合も考えてみたいのです。

 

 

 

 

 

 

「続かなかった」が、自分へのラベルになっていない?

 

 

習い事を始めた。

 

でも、途中でやめた。

 

また別のものを始めた。

 

それも、長くは続かなかった。

 

そんなときに、

 

「また続かなかったね」

 

「飽き性だね」

 

「三日坊主だね」

 

「あなたは何をやっても続かないね」

 

そんな言葉を何度も言われていたら。

 

いつしか、人から言われていた言葉を、自分自身でも使うようになることがあります。

 

「私は、何をやっても続かない人間なんだ。」

 

でも、本当にそうだったのでしょうか?

 

もしかしたら、

 

やってみたら思っていたものと違っただけかもしれない。

 

自分には合わなかったのかもしれない。

 

その時点で体験したかったことを十分体験して、満足したのかもしれない。

 

あるいは、もっと心が惹かれるものが別に見つかったのかもしれない。

 

それなのに、

 

「続かなかった」

 

という結果だけを見て、

 

「私は続けられない人間」

 

という自分自身へのラベルにしてしまう。

 

すると、そのラベルは過去だけではなく、未来にも影響してきます。

 

 

 

 

 

 

 

まだ始めてもいないのに、「最後までできる?」と考えてしまう



 

大人になって、

 

「これ、面白そう!」

 

というものを見つける。

 

本当はやってみたい。

 

なのに、

 

「でも、また続かなかったらどうしよう」

 

「せっかく始めても、また飽きるかもしれない」

 

「最後までできる自信がない」

 

と考えてしまう。

 

そして結局、やらない。

 

でも、ここで少し考えてみたいのです。

 

まだ始めてもいないのに、どうして未来の自分に「最後まで続けられる保証」を求めるのでしょう?

 

やったことがないものなら、

 

続くかどうかなんて、わからなくて当然です。

 

 

 

 

 

 

やってみなければ、わからない


 

実際にやってみたら、

 

想像以上に面白くて、10年続くかもしれません。

 

一生の趣味になるかもしれない。

 

仕事になるかもしれない。

 

人生を大きく変える出会いになるかもしれない。

 

反対に、

 

3ヶ月で満足するかもしれない。

 

1ヶ月で別のものに興味が移るかもしれない。

 

一度体験しただけで、

 

「あ、これは私には違うな」

 

とわかるかもしれません。

 

でも、それは全部、

 

やってみた後に初めてわかることです。

 

やる前から、

 

「これは絶対に一生続けられます」

 

なんてわかるものばかりだったら、誰も迷いません。

 

わからないからこそ、

 

やってみる。

 

そして、やってみた自分がどう感じるのかを知る。

 

私は、それでいいと思っています。

 

 

 

 

 

 

情熱の芽を「継続できる?」で枯らさなくていい


 

何かに心が動いたとき、

 

それはまだ小さな芽のようなものだと思います。

 

「面白そう」

 

「ちょっとやってみたい」

 

「なんだか気になる」

 

そんな小さな芽。

 

ところが、そこにすぐ、

 

「最後までできる?」

 

「何年続けられる?」

 

「途中でやめない?」

 

と問いかけたら、

 

せっかく出てきた芽を、自分で摘んでしまうことがあります。

 

もしかしたら、その先には、

 

今まで知らなかった自分がいるかもしれない。

 

大好きなものと出会えるかもしれない。

 

自分の人生がもっと楽しくなる何かが待っているかもしれない。

 

それなのに、

 

「最後まで続けられるかわからないから」

 

という理由だけで、その世界に入らない。

 

それは、少しもったいないように思います。

 

 

 

 

 

 

最初に聞くのは「続けられる?」ではなく「やってみたい?」


 

だから私は、

 

何かに興味を持ったとき、最初から

 

「続けられる?」

 

と聞かなくてもいいと思っています。

 

最初に聞くのは、

 

「やってみたい?」

 

それだけでもいい。

 

そして、

 

「やってみたい」

 

なら、やってみる。

 

続けるかどうかは、

 

実際に体験した後の自分に任せる。

 

 

 

 

 

 

続かなかったとしても、体験は残る


 

3ヶ月でやめたとしても、

 

その3ヶ月が無かったことになるわけではありません。

 

一度しか体験しなかったとしても、

 

その一回からわかることがあります。

 

「これは好きだった」

 

「ここは苦手だった」

 

「こういうものには惹かれないんだな」

 

「私はこっちの方が好きなんだ」

 

それも、自分について知ったことです。

 

だから、

 

「続かなかった=無駄だった」

 

ではない。

 

続かなかった経験だって、

 

次の選択に使うことができます。

 

 

 

 

 

 

自分を信じるって、「絶対に続けられる」と思うことだけじゃない

 

 

そして私は、

 

ここにはもう一つ大切なことがあると思っています。

 

自分を信じるというと、

 

「私は最後までやり遂げられる」

 

「私は絶対に続けられる」

 

と思えることを想像することがあります。

 

もちろん、それも一つの自信です。

 

でも、もう一つの自信があってもいい。

 

「やってみて違ったら、そのときの私はちゃんと選び直せる。」

 

続けたくなったら、続ける。

 

違うと思ったら、やめる。

 

十分だと思ったら、終える。

 

別のものに心が動いたら、そちらへ行ってみる。

 

そんな自分を信じる。

 

それも、立派な自己信頼なのではないでしょうか。






 

 

「続かなかったらどうしよう」から「続くかどうかは、やってみてから」



 

人生の中で、

 

「なんか面白そう」

 

「やってみたい」

 

と心が動く瞬間は、とても大切なものだと思います。

 

それは、自分の人生が今までとは違う方向へ広がっていく、小さな入口かもしれません。

 

だから、

 

「最後までできるかわからない。だから、やらない」

 

ではなく、

 

「最後までできるかわからない。だからこそ、まずやってみる。」

 

10年続いたら、それも素敵。

 

3ヶ月で満足したら、それもいい。

 

一度やって違うとわかったなら、それも大切な体験。

 

続くかどうかは、

 

やってみてからわかればいい。

 

過去に「続かなかった自分」がいたとしても、

 

その自分を理由に、

 

これから芽を出す情熱まで枯らさなくていい。

 

「これ、面白そう」

 

そんな気持ちが生まれたとき、

 

未来の自分に継続の保証を求めるのではなく、

 

まずは今の自分に聞いてみる。

 

「私、これやってみたい?」

 

そして心が「うん」と言ったなら、

 

まずは一歩、入ってみる。

 

その先で何を感じるのかは、

 

そのときの自分に聞けばいいのだから。







魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

https://siawasenomahoutukai-mami.online/contents_24.html

 

現状を変えたいなら、まずはここから



「一度始めたことは、最後までやりなさい」

 

子どもの頃、こんな言葉を聞いたことがある人もいるのではないでしょうか。

 

きっとこの言葉には、

 

「継続することの大切さを知ってほしい」

 

「すぐに諦めるのではなく、続けた先に見えるものも体験してほしい」

 

そんな大人なりの思いが込められていたのだと思います。

 

「継続は力なり」という言葉があるように、続けることで初めてできるようになることもあります。

 

最初はうまくいかなかったことが、何度も繰り返すうちにできるようになる。

 

その経験は、自分の力になっていくものだと思います。

 

だから、継続する経験そのものには、とても大切な意味があります。

 

でも私は、ここでちょっと意地悪なツッコミを入れたくなります。

 

「最後までやりなさい」って言うけれど……ところで、“最後”ってどこですか?






 

実は「最後」がないことも多い


 

例えば、習い事。

 

ピアノを始めたとして、最後とはどこでしょう?

 

一曲弾けるようになったら?

 

発表会に出たら?

 

何年か習ったら?

 

プロになったら?

 

武道なら何段まで?

 

語学なら、どのレベルまで話せるようになったら最後?

 

研究や技術の世界なら、新しい発見や技術が生まれ続けて、そもそも「これで全部終わり」というところがないものもあります。

 

そう考えてみると、

 

「最後までやりなさい」

 

という言葉には、実は終了条件がありません。

 

 

 

 

 

 

大人の頭の中にある「最後」は、子どもには見えない


 

もしかしたら、大人が本当に言いたかったのは、

 

「小学4年生から始めたんだから、まずは6年生までは続けてみよう」

 

ということだったのかもしれません。

 

それなら、

 

「まず2年間やってみよう」

 

「その間に、続けることで上達する経験もしてみよう」

 

「そして2年経ったら、そのとき改めて続けたいか考えてみよう」

 

と伝えればいい。

 

そうすれば、子どもにも「どこまでやってみるのか」がわかります。

 

大人には言わなくてもわかっていることでも、子どもにはわからないことがあります。

 

「最後まで」とだけ言われれば、

 

「一度始めたら、やめてはいけない」

 

と受け取ってしまうことだってあると思います。

 

だからこそ、

 

何のために続けてほしいのか。

いつまでやってみるのか。

その後には、もう一度選べること。

 

そこまで伝えてあげることも大切なのだと思います。

 

 

 

 

 

 

「続かなかった」を、その人の性格にしなくてもいい


 

そして、もう一つ気になる言葉があります。

 

「飽き性」

 

「三日坊主」

 

「あなたって本当に続かないよね」

 

何かを途中でやめたとき、こんなふうに言われることがあります。

 

でも、本当にその人には「継続する力がない」のでしょうか?

 

もしかしたら、

 

実際にやってみたら思っていたものと違ったのかもしれない。

 

最初は興味があったけれど、途中で興味がなくなったのかもしれない。

 

自分が体験したかったところまでは十分体験して、もう満足したのかもしれない。

 

あるいは、

 

「これは私には合わない」

 

とわかったのかもしれません。

 

それらを全部まとめて、

 

「あなたは飽き性だから」

 

としてしまうのは、少し違うように思います。

 

「続かなかった」という結果だけを見るのではなく、

 

「どうして続けたいと思わなくなったんだろう?」

 

と、その人の内側を見てみる。

 

すると、まったく違うものが見えてくるかもしれません。

 

 

 

 

 

 

「飽きた」も、大切な自分からの情報


 

「飽きた」という言葉も、なんとなく悪いものとして扱われがちです。

 

でも私は、

 

飽きることそのものが悪いとは思いません。

 

「もう十分楽しんだ」

 

「ここで得たいものは得られた」

 

「今は別のことに心が動いている」

 

そんな自分からのサインかもしれないからです。

 

もちろん、少し難しくなっただけですぐやめてしまい、それによって本人が困っているのなら、

 

「私はどうして難しくなるとやめたくなるんだろう?」

 

と考えてみることにも意味があります。

 

でもそれと、

 

「もう興味がない」

 

「十分体験した」

 

「やってみたけれど違った」

 

は、同じではありません。

 

だから、

 

「続かなかった=根性がない」

 

と簡単に決めなくてもいいのだと思います。

 

 

 

 

 

 

「私はできなかったから、あなたにはやってほしい」


 

そして習い事には、もう一つ別のことが重なる場合があります。

 

親自身が子どもの頃にできなかったこと。

 

やってみたかったけれど、できなかったこと。

 

途中で諦めざるを得なかったこと。

 

それを、

 

「自分の子どもには経験させてあげたい」

 

と思うことがあります。

 

そこには、親なりの愛情がある場合もあると思います。

 

自分ができなかったからこそ、この子には機会を与えてあげたい。

 

それ自体は、優しさから生まれることもあるでしょう。

 

でも、ここで忘れたくないことがあります。

 

子どもは、親の分身ではない。

 

一人の人間です。

 

親が好きだったものを、子どもも好きとは限らない。

 

親が憧れていたものに、子どもも憧れるとは限らない。

 

親が得られなかったものを、子どもが欲しいとは限らない。

 

子どもには子どもの、

 

好きなものがある。

 

嫌いなものがある。

 

得意なものがある。

 

苦手なものがある。

 

そして何より、

 

「私はこれをやってみたい」

「これはやりたくない」

 

という感覚があります。

 

 

 

 

 

 

選択する力は、誰かから「与えてもらう」ものではない


 

「子どもにも選択の自由を与えてあげる」

 

という言い方もできます。

 

でも私は、少し違うようにも感じます。

 

選択する自由そのものを、大人が所有していて、それを子どもに分け与えるわけではないからです。

 

子どもも一人の人間として、

 

自分がどう感じているのかを表現したり、

 

何を選びたいのかを考えたりする存在です。

 

もちろん、年齢によって判断できる範囲は違います。

 

安全や生活に関わることなら、大人が決めなければならないこともあります。

 

でも、

 

「あなたはどうしたい?」

 

と聞くことはできます。

 

「やってみたい?」

 

「実際にやってみてどうだった?」

 

「もう少し続けてみたい?」

 

「もう十分だと思っている?」

 

そんなふうに、自分の感覚を確認する経験を重ねていく。

 

それは、

 

自分の人生について、自分で考えて選ぶ練習

 

にもなるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

始める自由があるなら、選び直す自由もある


 

私は、新しいことを始めるとき、

 

もっと軽やかでもいいと思っています。

 

やってみる。

 

体験してみる。

 

しばらく続けてみる。

 

そして、自分に聞いてみる。

 

「どうだった?」

 

面白かったら、もっと続ける。

 

まだよくわからなかったら、もう少しやってみる。

 

十分だったら終える。

 

違うと思ったら、別のものを選ぶ。

 

一度離れて、何年かしてまたやりたくなったら戻ってくる。

 

そんな選び方だってあります。

 

始めることは、一生続ける契約ではありません。

 

むしろ、

 

「始めたら最後までやらなければならない」

 

と思っていたら、新しいことを始めること自体が怖くなってしまいます。

 

「途中で飽きたらどうしよう」

 

「向いていなかったらどうしよう」

 

「やめたら、また続かないと言われるかもしれない」

 

そう思ったら、

 

最初から何もしない方が安全になってしまいます。

 

それは、少しもったいない。

 

 

 

 

 

 

継続する力と同じくらい、選び直す力も大切


 

続けることでしか見えない景色があります。

 

だから「継続する力」は大切です。

 

でも同じように、

 

「もう違う」と気づいたときに方向を変える力。

 

「ここまでで十分」と終える力。

 

そして、

 

「今度はこっちをやってみたい」

 

と次へ進む力も大切なのではないでしょうか。

 

続けることだけが正解ではない。

 

やめることだけが正解でもない。

 

大切なのは、

 

「私は今、どう感じている?」

 

と自分に聞きながら、その都度選んでいくこと。

 

一度始めたら、最後まで。

 

ではなく、

 

「まず、ここまではやってみよう。

そして、そこまで行ったら、また自分で選ぼう。」

 

そんなふうに伝えられたら、

 

継続することの大切さも、

 

自分で選ぶことの大切さも、

 

両方を体験できるのではないでしょうか。

 

そして大人になった私たちも、

 

いつからだって自分に聞き直していい。

 

「私は、本当にこれを続けたい?」

 

「それとも、もう十分?」

 

「今は、何をやってみたい?」

 

昨日までの選択に縛られず、

 

今日の自分が、また選び直す。

 

それは「続かなかった」のではなく、

 

自分の人生を、自分で選び続けている

 

ということなのかもしれません。






魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy


 

 

現状を変えたいなら、まずはここから



何かに大きなお金を使ったとき、

 

「せっかく高いお金を払ったんだから、元を取らなきゃ」

 

と思うことってありませんか?

 

例えば、10万円の講座を受けたとします。

 

最初は興味があった。

やってみたいと思った。

だから10万円を払った。

 

でも実際にやってみたら、

 

「あれ? 思っていたのと違うな」

 

「もうあまり興味がないかも」

 

「続けたいという気持ちが湧いてこない」

 

そんなこともあると思います。

 

ところが、ここで出てくるのが、

 

「でも10万円も払ったし……」

 

という気持ち。

 

せっかく10万円も払ったんだから、

最後までやらなきゃ。

 

もっと勉強しなきゃ。

 

何かに活かさなきゃ。

 

元を取らなきゃ。

 

そうやって、本当はもう気持ちが向いていないことに、さらに時間とエネルギーを使い続けてしまうことがあります。

 

これは「サンクコストの罠」と呼ばれるものの一つです。

 

 

 

 

 

 

 

お金を取り返そうとして、さらに何かを払っていない?



 

私は、ここで一度考えてみたいことがあります。

 

お金の元を取ろうとして、

 

さらに自分の時間やエネルギーまで払っていないだろうか?

 

ということです。

 

10万円を払った。

 

その10万円を無駄にしたくないから、

本当はやりたくないことに100時間を使う。

 

そうすると、10万円が戻ってきたわけではありません。

 

むしろそこに、自分の大切な100時間まで追加で投入したことになります。

 

もちろん、その100時間が楽しかったり、もっと知りたいと思えたり、充実感ややりがいがあったりするのなら、それは素敵な時間だと思います。

 

でも、

 

「元を取らなきゃ」

 

それだけを理由に、嫌々、渋々続けているとしたら。

 

私はそこで、

 

「元を取るためにこれを続けている私は、今、幸せかな?」

 

と自分に聞いてみてもいいと思うのです。

 

 

 

 

 

 

大きなお金を払ったら、そこで一度「プラマイゼロ」


 

私は最近、こんなふうに考えるのもいいなと思うようになりました。

 

何かを購入したら、

 

そこで一度、

 

「プラマイゼロ」

 

と考えてみる。

 

例えば10万円の講座なら、

 

10万円を支払った。

 

そして、その代わりに

その講座を受ける機会や体験を受け取った。

 

そこで一度、取引は終了。

 

もちろん経済学的に「支払った瞬間にプラマイゼロになる」という意味ではありません。

 

これは、自分の気持ちを過去の金額に縛りつけないための、私なりの考え方です。

 

ここから先は、

 

「10万円分活かせるか?」

 

ではなく、

 

「実際にやってみて、私はどうだった?」

 

と自分に聞いてみる。

 

 

 

 

 

 

「合わなかった」も、ちゃんと得たもの


 

そもそも、やってみなければわからないことって、たくさんあります。

 

興味があって申し込んでみた。

 

実際にやってみた。

 

そして、

 

「私には合わなかった」

 

とわかった。

 

これも、ちゃんと一つの体験だと思います。

 

やる前には、

 

「自分に合うかもしれない」

「すごく好きになるかもしれない」

 

と思っていたものが、

 

実際に体験したことで、

 

「これは違う」

 

とわかった。

 

それって、自分についての情報を一つ手に入れたということでもあります。

 

私はこういうものには興味が続かないんだ。

 

こういう学び方はあまり好きじゃないんだ。

 

私はこっちより、あっちの方が好きなんだ。

 

そうやって、自分の輪郭が少しずつ見えてくる。

 

だから私は、

 

「せっかく買ったのに活かせなかった」

 

だけで終わらせなくてもいいと思っています。

 

「やってみたから、私には合わないとわかった」

 

それも十分、得たものです。

 

 

 

 

 

 

大切なのは「活かせたか」より「やってみてどうだった?」


 

何かを買ったあと、

 

「ちゃんと活かさなきゃ」

 

と思うことがあります。

 

でも私は、

 

「活かせたか、活かせなかったか」

 

よりも、

 

「やってみて、どうだった?」

 

と自分に聞いてみる方が好きです。

 

面白かった?

 

もっとやりたい?

 

もう十分?

 

思っていたのと違った?

 

別のことに興味が出てきた?

 

その答えが、次の選択につながっていくからです。

 

 

 

 

 

 

過去に払ったお金ではなく、これからの自分を見る



過去に払ったお金は変えられません。

 

でも、

 

これから使う時間は選べます。

 

これから使うエネルギーも選べます。

 

これから注ぐ情熱も選べます。

 

だったら、

 

「10万円も払ったんだから」

 

ではなく、

 

「今の私は、何に時間を使いたい?」

 

「今の私は、何にエネルギーを注ぎたい?」

 

「今、何を面白そうだと思っている?」

 

と、自分に聞いてみる。

 

そして、

 

「やってみたい」

 

「面白そう」

 

「もっと知りたい」

 

そんなふうに心が動くものがあるのなら、

 

そちらへ時間とエネルギーを使ってみる。

 

「元を取る」というのは、

 

過去に払ったものを必死に回収することだけではないのかもしれません。

 

その経験から自分のことを一つ知って、

 

次の選択を変える。

 

それだって、その経験を自分の人生に活かしたことになると私は思います。

 

払ったお金ではなく、

 

やってみた私の感覚を、次の選択に使う。

 

そして最後には、

 

「で、私はこれから、どこへ行きたい?」

 

と自分に聞いてみる。

 

過去に使ったお金を見つめ続けるのではなく、

 

これからの自分が向かいたい方へ。

 

時間も、エネルギーも、情熱も、

 

またそこから使っていけばいいのだと思います。







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現状を変えたいなら、まずはここから



高かったから、元を取らなきゃ。

 

そう思って、

もう興味がなくなったことを

続けてしまうことってありませんか?

 

せっかく買ったんだから。

こんなにお金をかけたんだから。

途中でやめたら、もったいない。

 

そう思って、

本当はもう気持ちが向いていないのに、

渋々続けてしまう。

 

これが「サンクコストの罠」のひとつです。

 

そんなとき、私はこう考えてみてもいいと思います。

 

「元を取るためにこれを続けている私は、

今、幸せかな?」

 

「やりがいや充実感を感じているかな?」

 

もし答えがNOなら、

 

お金を取り返すために、

さらに自分の時間やエネルギーまで

差し出さなくてもいい。

 

過去に使ったお金は戻ってこなくても、

これから使う時間は選べます。

 

これから使うエネルギーも、

これから注ぐ情熱も選べます。

 

だったら、

 

「やってみたい」

「面白そう」

「もっと知りたい」

 

そう心が動くものに、

これからの自分を使ってみる。

 

それもまた、

ひとつの「元の取り方」なのかもしれません。

 

お金ではなく、

その経験をきっかけに

自分の時間とエネルギーの使い方を変える。

 

「高かったから続ける」ではなく、

 

「これからの私を、何に使いたい?」

 

過去に払った金額ではなく、

これからの自分を基準に選んでみる。

 

私は、そんなふうに

サンクコストの罠から抜けてもいいと思っています。






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現状を変えたいなら、まずはここから







私は、夢や願望など、自分が向かいたい未来のことを「ゴール」と呼んでいます。

 

そして最近、改めて思うことがあります。

 

ゴールがあるからこそ、癒しやヒーリングに意味が生まれる。

 

私は、癒され続けることそのものをゴールにはしたくありません。

 

傷ついたことを癒したり、苦しかった気持ちを少し楽にしたり、自分の内側を整えたりすること。

 

それらはとても大切なことだけれど、そこで終わりではないと思っています。

 

「私は、どこへ行きたいんだろう」

「どんな人生を生きたいんだろう」

「何を叶えたいんだろう」

 

その先にあるものが見えてくると、癒しはただ過去を癒すためのものではなくなります。

 

これからの私を生きるための癒しになる。

 

夜空に輝く一番星のように、遠くにゴールがある。

 

だからこそ、今ここで立ち止まって自分を癒すことも、整えることも、その星へ向かう道の一部になるのだと思います。

 

ゴールがあるから、今ここでの癒しが未来につながっていく。

 

私は、そんなヒーリングを大切にしていきたいと思っています。



わたしたちは、悩み解決のために人生を生きているのではありません。

様々な体験や経験をしながら、夢を叶える、生きたい人生を生きるために
人生はあるのだと、わたしは思っています。

だから、生きたい人生を生きるために、
進めない原因となっている、解消が必要な悩みと向き合っていくということが大切なのです。





魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

現状を変えたいなら、まずはここから




悩み解消をゴールにしないで

 

 

悩みがあるときって、

 

「この悩みさえなくなったら……」

「これさえ解決したら……」

 

と思いますよね。

 

そして実際に悩みが解消すると、

すごく嬉しいし、ほっとする。

心も身体も軽くなる。

 

もちろん、それはとても嬉しいことです。

 

でも私は、

 

悩み解消をゴールにするのは、ちょっともったいないかも。

 

と思っています。

 

なぜなら、

悩みが解消された状態は、

夢が叶った状態とは少し違うから。

 

悩みがなくなって、

安心して日常を過ごせる。

 

それは本来のあなたの

「デフォルトの状態」に戻ったとも考えられます。

 

だったら、そこをゴールにするのではなく、

 

その先に、本当に行きたい未来を置いてみる。

 

私は、夢や願望のことを

「ゴール」と呼んでいます。

 

「こんなことをやってみたい」

「こんな場所へ行ってみたい」

「こんな毎日を過ごしたい」

「こんなものを創ってみたい」

 

悩みとはまったく関係のないことでいいんです。

 

むしろ、たくさんあっていい。

 

そんなゴールがいくつもあると、

「悩みをなくすため」だけではなく、

 

行きたい未来へ向かうための力が生まれてきます。

 

そして、その未来へ向かうエネルギーが、

結果として今抱えている悩みを

動かしていく力になることもあります。

 

悩みを解消して、終わりじゃない。

 

その先には、

あなたが見てみたい景色がある。

 

だから、悩みがあるときほど、

 

「この悩みをどうしたらいい?」

 

だけではなく、

 

「私は、この先どこへ行きたい?」

 

も考えてみてください。

 

悩みをなくすことだけを

人生の目的にしてしまったら、

それはちょっと、もったいない。

 

あなたは、

悩みをなくすためだけに

生きているんじゃないから。






魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから


「人生を楽しみたい」

 

そう思って、私はなるべく自分の好きなように、やりたいことをやって過ごしています。

 

でも、ふと思いました。

 

私は、本当に楽しんでいるのかな?

 

そもそも「楽しむ」って、どういうことなんだろう。

 

遊園地へ行って、ジェットコースターに乗って、「キャー!」と心が躍る。

 

おいしいものを食べて、「おいしい!」と幸せになる。

 

こういうものは、とても分かりやすい「楽しい」です。

 

でも、何もしないでダラダラしている時間は?

 

ただぼーっとしている時間は?

 

何かを考えることに夢中になって、気づいたら何時間も経っていたような時間は?

 

その瞬間には「楽しい!」なんて思っていなくても、あとから振り返って、

 

「ああ、あの時間、よかったな」

 

と思うことがあります。

 

 

 

もしかすると、楽しんでいる最中に「私は今、楽しんでいる」と自覚している必要なんてないのかもしれません。

 

むしろ、本当にその時間の中にいるときほど、そんなことを考えていないのではないでしょうか。

 

ただ、その時間を生きている。

 

そして後から、

 

「ああ、楽しかったな」

「幸せだったな」

「またやりたいな」

 

と気づく。

 

そう考えると、「人生を楽しむ」ということも、無理やり楽しいことを作ることではないような気がしてきました。

 

いつもポジティブでいることでもない。

 

毎日ワクワクすることでもない。

 

今起こっている人生に、ちゃんといること。

 

なのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

「今ここ」をつかまなくていい


 

「今ここを生きる」

 

よく聞く言葉です。

 

でも私は以前、この言葉を聞くと、

 

「今ここって、どうやって感じるんだろう?」

 

と思うことがありました。

 

今を感じなきゃ。

 

身体を感じなきゃ。

 

私は今ここにいる、と意識しなきゃ。

 

そうやって「今」をがっちりつかもうとしていたのかもしれません。

 

でも、今は少し違うように感じています。

 

本当に今ここにいるときって、

 

「私は今ここにいる」

 

なんて考えていないんですよね。

 

お茶がおいしかったら、おいしい。

 

風が気持ちよかったら、気持ちいい。

 

何かに夢中になっていたら、ただ夢中になっている。

 

眠かったら、横になる。

 

そこには、「ちゃんと今を感じられているかな?」という確認がありません。

 

**私はここにいる。

 

でも、それを意識しているというより、今という時間と静かに溶け合っている。**

 

そんな感じなのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

三昧という言葉


 

そこから「三昧」という言葉を思い出しました。

 

私は以前、三昧というと、

 

ものすごく集中して、

深い意識状態に入って、

何かをがっしりつかむように没頭する。

 

そんなイメージを持っていました。

 

でも、もしかすると私が感じていたのは、もっと静かなものなのかもしれません。

 

「集中しなくては」と力を入れるのではなく、

 

ただ、その経験の中にいる。

 

「私は今、溶け込んでいる」

 

とさえ思わない。

 

ただ経験している。

 

ただ感じている。

 

ただそこにいる。

 

そして、この感覚を考えていたとき、私の中に浮かんできたのが、静かな湖でした。

 

 

 

 

 

 

澄んだ湖のように


 

風のない日の湖。

 

湖面は静かで、鏡のように空を映しています。

 

木々も、雲も、そのまま映っている。

 

湖は、

 

「もっと正確に空を映さなくては」

 

なんて努力していません。

 

「私は今、空と一体になれているだろうか」

 

なんて確認もしていません。

 

ただ静かに、そこにあるものを映している。

 

なんだか、それに近い気がしました。

 

何かをもっと欲しいとつかみにいくのでもなく、

 

嫌なものを「これはいらない」と押し返すのでもなく、

 

起こっていることを経験しながら、静かにそこにいる。

 

**何も感じないのではありません。

 

むしろ、ちゃんと感じている。

 

でも、つかまない。

 

避けない。

 

ただ澄んでいる。**

 

それが私にとっての「全面的に感じる」ということなのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

知らなかったのではなく、もう経験していた


 

そして、ここまで考えていて、もう一つ気づいたことがありました。

 

これは、まったく知らなかった感覚ではありませんでした。

 

「あ、この感じ、知ってる」

 

と思ったんです。

 

そういえば、あのとき。

 

何かに夢中になっていたとき。

 

ただ静かに過ごしていたとき。

 

何かを全面的に感じていたとき。

 

私はもう、何度も経験していた。

 

でも、その瞬間には分からなかった。

 

後になって言葉を知り、考えてみたことで、

 

「ああ、あれだったのか」

 

と過去の経験とつながった。

 

もしかすると、覚醒のようなものも、楽しむことも、そうなのかもしれません。

 

「今、私は覚醒している」

 

「今、私は人生を楽しんでいる」

 

と確認するものではなく、

 

その瞬間にはただ、生きている。

 

ただ感じている。

 

そして後から振り返ったとき、

 

「ああ、あのとき私は、あの瞬間を丸ごと生きていたんだな」

 

と気づく。

 

 

 

 

 

 

歓喜は、打ち上げ花火だけじゃない


 

私は、

 

「心が震える歓喜の人生に」

 

という言葉を大切にしています。

 

でも、歓喜というのも、いつも打ち上げ花火のように派手なものではないのだと思います。

 

大声で笑ったり、飛び跳ねたりするような歓喜もある。

 

一方で、

 

静かなところから、

身体の奥のほうから、

 

「ああ、生きているな」

 

と湧き上がってくるものもある。

 

だから、人生を楽しむために、毎日を楽しくしなくてもいい。

 

何もしない日があってもいい。

 

ぼーっとする時間があってもいい。

 

楽しくない日だってある。

 

湖には晴れた空だけではなく、曇り空も映ります。

 

雨が降れば、湖面には波紋が広がります。

 

それでも湖は、その日の空を映している。

 

だから私も、

 

「人生を楽しもう」と頑張らなくてもいいのかもしれない。

 

今日起こっている人生の中にいる。

 

感じる。

 

味わう。

 

そして、ときには何もせず、ただそこにいる。

 

その時間を後から振り返ったとき、

 

「ああ、楽しかったな」

 

と思うかもしれない。

 

「あの頃、幸せだったな」

 

と思うかもしれない。

 

それでいい。

 

人生を楽しむというのは、

 

楽しい人生を一生懸命つくることではなく、

 

自分の人生が起こっているその場所に、自分もいること。

 

なのかもしれません。






魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

現状を変えたいなら、まずはここから





「人に助けてもらったことで、かえってその相手を嫌いになることがある」

 

そんな心の働きを説明する「自尊心脅威モデル」というものがあることを知りました。

 

最初に知ったとき、私は少し驚きました。

 

私は誰かに助けてもらったとき、その人に嫌悪感を抱いた経験があまり思い当たらなかったからです。

 

でも、考えていくうちに、

 

「ああ、これは場合によっては起こるかもしれない」

 

と思うようになりました。

 

たとえば、自分にとってものすごく恥ずかしい出来事があったとします。

 

誰にも見られたくなかった。

自分の無力さを感じた。

自分でも見たくないような、かっこ悪い自分だった。

 

そんなときに誰かに助けてもらった。

 

もちろん「助けてくれてありがとう」という感謝はある。

 

でも、その人を見るたびに、

 

「あのときの自分」

 

を思い出してしまう。

 

すると、いつしかその人と会うことそのものが嫌になったり、その人に嫌悪感を抱いたりすることもあるのかもしれません。

 

相手が嫌いというより、

 

「あんな自分が嫌だった」

 

という気持ちが、助けてくれた相手にくっついていることだってあるのかもしれない。

 

そんなことを考えていました。

 

でも、ここで私は少し引っかかりました。

 

もし、助けることによって相手の自尊心を傷つけてしまう可能性があるのなら、

 

「人を助けるときには気をつけなければいけないのかな?」

 

と。

 

少しだけ、ひるんだんです。

 

そこで私は、逆を考えてみました。

 

もし、助けなかったら?

 

たとえば、一人の女性の背後に怪獣が迫っているとします。

 

本人は気づいていない。

 

私はそれに気づいている。

 

そして私には、その人を助けることができる。

 

そんな状況なら、私はたぶん咄嗟に助けると思います。

 

ところが、助けられた女性が、

 

「自分では何もできなかった」

「助けられなければならなかった自分が惨めだ」

 

と感じて、その恥ずかしさから私を嫌いになることだって、理屈の上ではあるかもしれない。

 

では、私は嫌われないために何もしなければいいのでしょうか。

 

今度は、怪獣が迫っていることを知っていたのに私は何もしなかった。

 

その結果、女性は襲われて怪我をした。

 

そうなったら、

 

「気づいていたのに、どうして助けてくれなかったの?」

 

と思われるかもしれません。

 

 

 

もっと日常的な例なら、ワンピースの背中のファスナーが開いている人を見つけたとき。

 

私はたぶん、そっと近づいて小声で教えると思います。

 

そして、相手の了承を得てサッと直して、何事もなかったように過ごしてもらう。

 

でも、それによって、

 

「見られてしまった。恥ずかしい」

 

と思われるかもしれない。

 

だからといって、気づいているのに知らないふりをして、その人があとから自分で気づいたら、

 

「周りの人、絶対気づいていたよね。どうして誰も教えてくれなかったんだろう」

 

と思うかもしれない。

 

そこで気づきました。

 

 

 

どちらを選んでも、嫌われる可能性をゼロにはできない。

 

 

 

人を助けたとしても。

助けなかったとしても。

 

相手がその出来事をどう受け取るのかは、私には決められません。

 

「ここまでしてくれてありがとう」と思う人もいれば、

 

「そこまではしてほしくなかった」

 

と思う人もいる。

 

私は「ここまでやってあげたほうがいい」と思って行動しても、相手にとっては少しやりすぎだったかもしれない。

 

反対に、「本人ができるところは残しておこう」と思って手を出さなかったところを、

 

「そこも助けてほしかった」

 

と思われるかもしれない。

 

 

 

結局、

 

私がどんな意図で行動したのか。

実際にどんな援助をしたのか。

相手がどのくらいの援助を望んでいたのか。

そして相手がその出来事をどう意味づけるのか。

 

これは全部、同じではありません。

 

だから私は思いました。

 

相手が私をどう思うかまで、私が背負うことはできない。

 

それは相手のものだから。

 

私はそのとき、そのときの自分にできる範囲で考えて、感じて、行動するしかありません。

 

危ないと思ったら、助ける。

 

困っていると思って、手を差し伸べたいと思ったら、手を差し伸べる。

 

余裕がある場面なら、

 

「手伝おうか?」

 

と相手に聞くことだってできる。

 

でも、咄嗟の場面ではそんなことを考えている時間さえないことがあります。

 

 

 

そして、もう一つ思ったことがあります。

 

もし本当に危険な出来事を目の前にして、身体がフリーズしてしまったら。

 

頭が真っ白になって、

何をしたらいいのか分からなくなって、

身体も動かなくなってしまったら。

 

それは、

 

「助けなかった」

 

でも、

 

「助けようとしなかった」

 

でもないと思うんです。

 

 

助けることができなかった。

 

それだけなのだと思います。

 

 

 

「助けたい」という思考さえ生まれる前に、身体が固まってしまうことだってあるかもしれない。

 

それは悪意ではありません。

 

その瞬間に起きた身体の反応です。

 

あとから、

 

「どうして私は何もできなかったんだろう」

 

と自分を責め続けなくてもいい。

 

その瞬間の自分には、それしかできなかったのだから。

 

 

 

今回、「自尊心脅威モデル」というものを知ったところから、私はずいぶん遠くまで考えました。

 

人を助けたら、嫌われることもあるのかもしれない。

 

それを知ったとき、少し怖くなりました。

 

でも、ぐるっと一周して、今はこう思います。

 

それでも私は、助けたいと思ったら助ける。

 

相手がどう受け取るかは、相手のもの。

 

「もっとこうしてほしかった」

「そこまでしてほしくなかった」

「恥ずかしかった」

「あなたのことが嫌になった」

 

そう思われる可能性まで、私はなくすことはできません。

 

 

 

もちろん、できる限り相手の尊厳を大切にしたい。

 

できるなら本人の意思も確認したい。

 

でも、未来の相手の感情をすべて予測して、誰からも嫌われない行動を選ぶことはできません。

 

だったら私は、

 

嫌われないための選択より、自分が後悔しない選択をしたい。

 

その瞬間に自分が分かる範囲で。

その瞬間に自分ができる範囲で。

自分なりの精一杯をする。

 

そして、結果として相手から嫌われたとしても、

 

「あのときの私は、あのときの私なりに行動した」

 

と思えたら、それでいい。

 

 

 

逆に、何もできなかったとしても、

 

「あのときの私は、怖くて動けなかったんだね」

 

と自分のところへ戻ってくる。

 

助けても、助けられなくても。

 

相手が感謝しても、怒っても、嫌っても。

 

相手の気持ちは相手のもの。

 

そして私は、

 

その瞬間の自分ができることをして、自分まで自分を責めない。

 

「人から嫌われないために、どう行動するか」ではなく、

 

「私は、どうありたいのか」

 

今回、自尊心脅威という言葉について考え続けた先で、私はそこに戻ってきました。






魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

現状を変えたいなら、まずはここから


ひらめきを待たない時間

――本人はスヤスヤ、自販機はせっせせっせ


 

前回、私はひらめきを「自動販売機」にたとえてみました。

 

知識や経験、体験を自分の中に入れていく。

 

そして、

 

「こんなものを作りたいな」

「何かいい方法はないかな」

「これとこれを組み合わせられないかな」

 

という問いを持つ。

 

これが自販機にお金を入れて、欲しいもののボタンを押すようなもの。

 

そして、すぐに答えが出てこないからといって、

 

「早く出して!」

「まだなの?」

「今すぐ答えが欲しい!」

 

と自販機をガンガン揺らさない。

 

ここまでが前回のお話でした。

 

では、ボタンを押したあと、

私は何をしているのか。

 

答えは、とても簡単です。

 

忘れます。






 

「待つ」のではなく「忘れる」


 

これは私にとって、とても大切なところです。

 

「そのうちアイデアが出てくるかな」

 

と待っているのとも少し違います。

 

待っているということは、

まだそこに意識が向いているからです。

 

「まだかな」

「そろそろかな」

「今日あたり出てくるかな」

 

これでは結局、自販機の前から離れていません。

 

しかも、

 

「早く答えが欲しい」

 

という気持ちが強くなってくると、

だんだん緊張してきます。

 

だから私は、

いったんそのことをすっかり忘れます。

 

問いを持ったら、

あとは普通に暮らす。

 

 

 

 

 

 

私の余白の過ごし方


 

では、その余白の時間に何をしているのか。

 

私は、のび太くんみたいにゴロゴロします。

 

お昼寝もします。

 

ゆっくり飲み物を飲んだり、

のんびりお風呂に浸かったり。

 

安全に歩けるときなら、

散歩をするのも好きです。

 

特別なことはしていません。

 

むしろ、

 

何かを生み出そうとしない時間

 

を過ごしています。

 

お風呂に入ったからといって、

 

「さあ、そろそろアイデアを3個ください」

 

なんてやりません。

 

「もう20分もお風呂に入っているんですけど、まだですか?」

 

とも言いません。

 

それでは結局、

自販機をガンガン揺らしているのと同じだからです。

 

ただ、お風呂を楽しむ。

 

眠かったら眠る。

 

飲み物をゆっくり味わう。

 

ぼーっとする。

 

その時間そのものを過ごします。

 

 

 

 

 

 

本人はスヤスヤ。自販機はせっせせっせ


 

創造的な問題についていったん考えたあと、そこから離れている時間を挟むことで、その後の問題解決やアイデア生成が促されることがあります。

 

認知心理学などでは、こうした現象に関連して「インキュベーション(incubation)」という言葉があります。

 

日本語では「孵化」と表現されることがあります。

 

この「孵化」という言葉、

私はとても素敵だなと思いました。

 

卵の中では何も起きていないように見える。

 

でも、見えないところでは少しずつ育っている。

 

そして、あるとき殻が割れる。

 

これって、ひらめきにも少し似ています。

 

もちろん、私たちが意識していない間に脳の中で具体的に何が起きているのかを、「ずっと裏側で答えを計算している」と単純に言い切ることはできません。

 

でも、私自身の感覚を自販機にたとえるなら、

 

本人はスヤスヤ。

自販機は、せっせ、せっせ……。

 

そんな感じです。

 

本人はもう、問いを忘れている。

 

お昼寝したり、

ご飯を食べたり、

お風呂に入ったり、

違うことを楽しんでいる。

 

その間に、

 

これとこれをつなげてみよう。

 

いや、こっちかな。

 

あの体験も使えるかもしれない。

 

そんなふうに、今まで自分の中に入れてきたものが、

見えないところで新しい組み合わせになっていくような感覚があります。

 

そして本人がすっかり忘れたころに、

 

ガコン。

 

「あ!!」

 

突然出てくる。

 

私は、この瞬間が大好きです。

 

 

 

 

 

 

ひらめきを生み出すために、余白を使わない


 

ここには、ちょっとした矛盾があります。

 

「余白を作るとひらめきが出るらしい」

 

と知った途端、

 

「じゃあ、ひらめくために余白を作ろう」

 

となってしまうことがあります。

 

でも私にとっては、

それもちょっと違うんです。

 

「今日はひらめくために30分ぼーっとしよう」

 

「お風呂に入ればアイデアが出るかもしれない」

 

「散歩したから、そろそろ何か出てくるはず」

 

となったら、

結局ずっと答えを待っています。

 

余白は、

ひらめきを生産するための作業時間ではありません。

 

余白は、余白。

 

だから、その時間そのものを楽しむ。

 

そしてひらめきは、

そこから生まれることのある副産物くらいでいい。

 

私はそんなふうに思っています。

 

 

 

 

 

 

まず入れる。そして、手放す


 

もちろん、何も自分の中に入れずに、

ただ待っているだけではありません。

 

本を読む。

 

知らないことを知る。

 

実際にやってみる。

 

人と話す。

 

感じる。

 

失敗する。

 

考える。

 

いろいろな体験をする。

 

そうやって、自分の中にたくさんの材料を入れていきます。

 

そして、

 

「私はこんなものを作りたい」

 

という問いを持つ。

 

ここまでは、ちゃんと自分でやる。

 

でも、そのあとは手放す。

 

忘れてしまう。

 

そして自分は、

のび太くんのようにのんびり過ごす。

 

すると、ある日突然、

 

ガコン。

 

「できましたよ」

 

とでも言うように、

思いもしなかった形で答えが出てくることがあります。

 

 

 

 

 

 

忘れている時間も、創造の時間


 

何かを作りたいときほど、

ずっとそのことを考えていなければならないような気がします。

 

でも私は、そうではない時間も大切にしています。

 

考える時間。

 

そして、

 

考えない時間。

 

知識や体験を入れる時間。

 

そして、

 

それをいったん手放す時間。

 

どちらもあっていい。

 

何もしていないように見える時間を、

「無駄」と決めなくてもいい。

 

もしかしたらその時間は、

 

まだバラバラのパーツだったものが、

自分でも予想していなかった形へと育っている途中なのかもしれません。

 

だから今日も私は、

安心して余白を過ごします。

 

本人はスヤスヤ。

 

自販機は、

 

せっせ、せっせ……。

 

そして、忘れたころに、

 

ガコン。

 

その瞬間を、

私は楽しみにしています。






魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy


 

 

現状を変えたいなら、まずはここから


余白は、何かが生まれるための場所


 

何もしていない時間って、

なんとなく「もったいない」と感じることがあります。

 

何かしなくちゃ。

もっと進めなくちゃ。

せっかく時間があるんだから、有効に使わなくちゃ。

 

そんなふうに思うこともあるかもしれません。

 

でも最近、私は思うんです。

 

余白は、何もない時間ではなく、何かが生まれるための場所なんじゃないか。






 

ひらめきは、余白の中からやってくる


 

アイデアやひらめきって、

 

「さあ、今から素晴らしいアイデアを出そう!」

 

と思ったからといって、必ず出てくるものではありません。

 

むしろ焦って、

 

「何か考えなきゃ」

「早く答えを出さなきゃ」

「今日中に決めなくちゃ」

 

と頭を絞っているときほど、何も出てこなかったりします。

 

反対に、

 

ゆっくり過ごしているとき。

ぼーっとしているとき。

何か別のことをしているとき。

 

そんな余白の中で、

 

「あっ!」

 

と突然何かがつながることがあります。

 

ずっと考えていたことの答えが、何の前触れもなく出てきたり。

 

バラバラだったものが突然一つにつながって、

 

「これだ!」

 

となったり。

 

私は、ひらめきってそんなふうに生まれるものなんじゃないかなと思っています。

 

 

 

 

 

 

ひらめきって、自販機みたい


 

そんなことを考えていたら、

ひらめきって自動販売機みたいだなと思いました。

 

まず私たちは、いろいろなものを自分の中に入れていきます。

 

本を読んで知ったこと。

誰かとの会話。

自分自身の体験。

失敗したこと。

嬉しかったこと。

何気なく目にしたもの。

これまで考えてきたこと。

 

そういう知識や経験や体験が、

自販機に入れる「お金」みたいなもの。

 

そして、

 

「こんなものを作りたいな」

 

「これとこれをうまく組み合わせられないかな」

 

「もっといい方法はないかな」

 

と問いを持つ。

 

それが、欲しい商品のボタンを押すようなものです。

 

ピッ。

 

ここまでは自分でする。

 

でも、そのあとが大切なんです。

 

 

 

 

 

 

自販機をガンガン揺らさない


 

ボタンを押したのに、すぐ商品が出てこなかったら。

 

「早く出せ!」

 

「まだなの?」

 

「今すぐ答えを出さなきゃ!」

 

と、自販機をガンガン揺らしたくなるかもしれません。

 

でも、それをしたからといって早く出てくるわけではありません。

 

むしろ邪魔になってしまいそうです。

 

アイデアも、これと似ているように思います。

 

必要なものを自分の中に入れた。

 

問いも持った。

 

だったら、あとは少し離れてみる。

 

お茶を飲んでもいい。

散歩をしてもいい。

ご飯を食べてもいい。

全然違う本を読んでもいい。

何もしないでゆっくりしてもいい。

 

一見すると、

その問題について何もしていない時間です。

 

でも、その余白の中で、

それまで集めてきたパーツが静かに組み替わっているのかもしれません。

 

これとこれをつなげてみよう。

 

いや、こっちかな。

 

ここにあの経験を組み合わせたらどうだろう。

 

そんなふうに、私たちが意識していないところで、

新しい形が少しずつ出来上がっていく。

 

そしてあるとき突然、

 

ガコン。

 

「あ、これだ!」

 

出来上がったものが、

ひらめきとして出てくる。

 

そんな感じです。

 

 

 

 

 

 

余白だけでも生まれない


 

ただ、面白いのは、

何も入れていない自販機から商品は出てこないということです。

 

ひらめきが欲しいからといって、

ただずっとぼーっとしていればいいということでもない。

 

知ること。

感じること。

経験すること。

考えること。

失敗すること。

やってみること。

 

そうやって、自分の中にたくさんのパーツを入れていく。

 

そして、

 

「私はこんなものを作りたい」

 

「こんなことができたらいいな」

 

という問いを持つ。

 

そのうえで、

 

余白をつくる。

 

私は、この両方が大切なのだと思います。

 

 

 

 

 

 

何もしていないように見える時間にも


 

私たちは、目に見える行動をしている時間を「進んでいる時間」と考えがちです。

 

作っている。

書いている。

勉強している。

仕事をしている。

何かを完成させている。

 

そういう時間は、確かにわかりやすい。

 

でも、人の内側で何かが育っている時間は、

外からはなかなか見えません。

 

だから、

 

「何もしていない」

「時間を無駄にしている」

 

ように感じてしまう。

 

でも、本当はそうではないのかもしれません。

 

それまで見聞きしたことや経験したことが、

自分の中でゆっくり混ざり合っている時間。

 

まだ言葉になっていないものが、

言葉になろうとしている時間。

 

まだ形のないものが、

形になろうとしている時間。

 

そんな時間もある。






 

余白は、創造の場所


 

だから私は、

余白を以前より大切にしたいと思っています。

 

急いで答えを出さなくてもいい。

 

すぐに完成させなくてもいい。

 

ボタンを押したなら、

自販機の前でガンガン揺らさなくてもいい。

 

そのうち、

 

ガコン。

 

と出てくるかもしれないから。

 

そのとき出てきたものは、

最初に自分が想像していたものより、

もっと面白い形になっていることだってあります。

 

余白は、

何もしていない時間ではありません。

 

余白は、まだ形になっていないものが、形になろうとしている場所。

 

だから、ときには安心して、

何もしない時間を過ごしてみてもいい。

 

もしかしたら今も、

あなたの中の自販機では、

 

次の素敵な何かを

せっせと作っている途中なのかもしれません。






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