浄化で爆速!願望達成☆体験100日チャレンジ第3弾32日目 一つの答えで、世界のすべてを説明しなくていい

一つの答えで、世界のすべてを説明しなくていい
最近、スピリチュアルに関する発信を見ていて、
少し気になることがありました。
それは、自分が信じているものや、
自分が扱っているものの素晴らしさを伝えるために、
「こちらが本物で、あちらは偽物」
「それは間違っている」
「そんなものは意味がない」
というように、ほかの考え方や方法を強く否定する発信です。
もちろん、「私はこの考え方には賛同しません」と意見を伝えることと、
誰かや何かを否定したり馬鹿にしたりすることは違います。
私自身も、スピリチュアルの世界で言われていることに対して、
「それはちょっと違うんじゃないかな」と感じることはあります。
だから、疑問を持つことや批判的に考えること自体が悪いとは思いません。
でも私は何かを学ぶとき、
「ほかはダメだけれど、これはすごい」
という伝え方をされるものを、あまり学びたいとは思わないんですよね。
なぜなら、本当にそのものに魅力があるのなら、
ほかを下げなくても、その魅力を伝えることはできると思うからです。
「正解」は、本当に一つなのだろうか
そんなことを考えるきっかけの一つになったのが、誕生石についての話でした。
誕生石は国によって違いがあります。
そして、そもそも誕生石そのものも、絶対的な自然法則ではありません。
「この月に生まれた人は、絶対にこの石を持たなければならない」というものでもありませんよね。
誕生石を知って、
「自分の誕生月の石だから、なんだか親近感がある」
と思うのも素敵です。
でも、自分の誕生石より別の石のほうが好きなら、好きな石を選んでもいい。
それくらい自由でいいと私は思います。
ところが、一つの体系を「これが正しい」と決めた瞬間、そこから外れたものを「間違い」「偽物」としたくなることがあります。
これは誕生石だけの話ではありません。
考えているうちに、以前から私がスピリチュアルについて感じていた、
もっと大きな疑問につながっていきました。
「原因はすべて自分」という考え方に苦しくなった
以前の私は、
「自分に起こる出来事の原因は自分にある」
という考え方を、かなり広い範囲に当てはめていました。
自分の内側を見つめたり、自分にできることを考えたりするためには、役立つこともある考え方だと思います。
でも、あるとき疑問を感じました。
本当に、すべての出来事の原因を自分にする必要があるのだろうか?
人と人との間で起きる出来事には、自分だけではなく相手がいます。
相手にも意思があります。
相手にも選択があります。
相手にもその人自身の人生があります。
それなのに、そこで起きたことまで全部、
「私が引き寄せた」
「私の思考が作った」
「私の内側に原因があった」
と考える必要があるのでしょうか。
私は、そうではないと思うようになりました。
自分が原因ではない出来事もある。
でも、それは人生の主導権を失うこととは違います。
出来事の原因をすべて自分にしなくても、その後どう生きるかは自分で選べる。
このことに気づいたとき、私はとてもホッとしました。
そして思い出した「前世とカルマ」への疑問
今回いろいろ考えているうちに、以前から心のどこかに残っていた疑問を思い出しました。
それは、前世やカルマについてです。
スピリチュアルの世界ではときどき、
「今世で起きる苦しい出来事には、前世からのカルマが関係している」
というような説明を耳にすることがあります。
でも私は、以前からここに引っかかりを感じていました。
たとえば、小さな子どもが事故で命を落としたとします。
その出来事に対して、
「前世で悪いことをしたから、今世でその罪を償っている」
と説明したらどうでしょう。
私は、とても苦しくなります。
そもそも前世について、私は「絶対にある」と証明することもできなければ、「絶対にない」と証明することもできません。
わからないものは、わからない。
それでいいのではないでしょうか。
わからない出来事に対して、無理にスピリチュアルな説明をつけなくてもいい。
特に、人の命や深い苦しみに関わる出来事にまで、
一つの理論を当てはめて「だからこうなった」と説明する必要はないと、今の私は思っています。
一つの考え方を「万能の法則」にしない
ここまで考えて、ようやく一つにつながりました。
私が苦しくなっていたのは、スピリチュアルそのものではなかったのかもしれません。
一つの理論や仮説、考え方を、人生で起こるすべての出来事に適用しようとしていたこと。
そこに苦しさがあったのだと思います。
一つの考え方が、ある場面では自分を助けてくれることがあります。
でも、別の場面に同じものを当てはめた途端、自分や誰かを苦しめることもあります。
だったら、そこで一度立ち止まってもいい。
「この考え方は、ここにも本当に当てはまるのかな?」
「これを信じることで、私は生きやすくなっているかな?」
「自分や誰かを必要以上に責めることになっていないかな?」
そうやって、自分で考えていいのだと思います。
スピリチュアルを全部信じなくてもいいし、全部捨てなくてもいい
私はスピリチュアルが好きです。
でも、スピリチュアルで言われていることを、全部信じているわけではありません。
私にとってスピリチュアルは、
自分自身や人生を縛るためのものではなく、
より良く、より自分らしく生きるために役立てるものです。
だから私は、その中から自分にとってプラスになるものを選びたい。
自分だけではなく、誰かに伝えるのであれば、その人にとってもプラスになる可能性のあるものを伝えたい。
そして、その人自身が、
「私はこの考え方が好き」
「これは今の私には必要ない」
と選べる余白も残しておきたいと思っています。
何かを信じることと、それを絶対的な真実にすることは違います。
何かに疑問を持つことと、それを信じている人を馬鹿にすることも違います。
「私はこれを選びます」
それだけで、本当は十分なのかもしれません。
一つの答えで、世界を塗りつぶさない
世の中には、わからないことがたくさんあります。
なぜこんなことが起きたのだろう。
なぜ私だったのだろう。
なぜあの人だったのだろう。
考えても、答えの出ないことがあります。
そんなとき、人は答えが欲しくなるのかもしれません。
「カルマだから」
「引き寄せたから」
「思考が現実化したから」
そう説明できれば、一瞬、世界が理解できたような気持ちになることもあります。
でも、答えがないことを、答えがないままにしておくこともできる。
「確認できないことは、私にはわからない」
それも一つの誠実な態度だと思います。
そして、今の自分に役立つ考え方は取り入れて、苦しくなる考え方は手放してもいい。
一度取り入れた考え方を、途中でやめたっていい。
「前は信じていたけれど、今の私は違うと思う」
それだっていい。
一つの理論で、世界のすべてを説明しなくていい。
一つの答えで、世界全部を塗りつぶさなくていい。
何を信じるかさえ、自分で選んでいい。
私は最近、そう思えるようになったことで、スピリチュアルから離れたというよりも、むしろ以前より自由にスピリチュアルと付き合えるようになった気がしています。
自分を怖がらせるためではなく。
自分を縛るためでもなく。
誰かを裁くためでもなく。
自分と仲良く、自分の人生を生きるために。
私はこれからも、自分で感じ、自分で考え、自分で選びながら、必要なものだけを大切にしていきたいと思います。