まっさらな瞳

こんにちは。

このブログ「まっさらな瞳」へようこそ。

 

ここは、あなたが本来の自分を思い出し、心をオープンにして、毎日を軽やかに、そして自分らしく生きるためのヒントをお届けする場所です。

 

私たちは生まれたとき、誰もが純粋な瞳を持っています。その瞳の奥には、ありのままの自分がいて、世界と柔らかくつながりながら輝く力があります。けれど、日々の生活や人との関わりの中で、その純粋さや自由さを忘れてしまうこともあります。

 

このブログでは、

 

自己信頼や内なる叡智を思い出すこと

 

自分らしい生き方を育む気づき

 

夢を叶えながら、心地よく輝く日々のヒント

 

などを、私自身の体験や講座での学びとともにお届けしていきます。

 

ヒーラー養成講座やセクシャルウェルネスなどの学びも、この「真っさらな瞳」という視点で統合され、あなたの中の本来の力を呼び覚ますきっかけになれば嬉しいです。

 

さあ、一緒に、目を覚ましたばかりの赤ちゃんのような、真っさらな瞳で、毎日を見つめてみませんか。


「嫌いじゃないから残す」から、「私はこれを選ぶ」へ。

断捨離で気づいた人生の選び方

 

 

 

最近、少しずつ断捨離をしています。

 

ただ物を減らしたいというよりも、

 

「未来の私は、どんなものを身の回りに置いているだろう?」

 

そんなことを考えながら、今の自分の身の回りにあるものを、一つひとつ見直しています。

 

そんな中で、ふと気づいたことがありました。

 

それは、

 

好きでもない。

でも、嫌いでもない。

 

そんなものが、意外と身の回りに残っているということです。

 

嫌いなものなら、「もういらない」と比較的簡単に気づけます。

 

壊れていたり、明らかに使わなくなったものも、手放す判断がしやすい。

 

でも、

 

「別に嫌いじゃない」

「まだ使おうと思えば使える」

「特に困っているわけでもない」

 

そんなものは、なかなか気づきません。

 

ずっとそこにあるうちに、いつの間にか日常の風景になってしまうからです。

 

 

 

 

 

 

「残っている」と「残す」は違う



 

もちろん、好きでも嫌いでもないものを持っていてはいけないわけではありません。

 

それを残すのも、一つの選択です。

 

でも今回、私が気になったのは、

 

「私はこれを残したいから残している」のか、

「捨てる理由がないから、なんとなく残っている」のか。

 

という違いでした。

 

外から見れば、どちらも同じように「その物を持っている」状態です。

 

でも、自分の中ではまったく違います。

 

「私はこれを残す」と決めたのであれば、そこには自分の意思があります。

 

一方で、

 

「嫌いじゃないから」

「まだ使えるから」

「なんとなく」

 

という理由だけで置き続けているものは、自分で選んだというより、選択しないまま時間だけが過ぎていることもあります。

 

そして私は、

 

これって、物だけではなく人生にもあるのではないだろうか?

 

と思いました。

 

 

 

 

 

 

人生にも「なんとなく残っているもの」がある



 

仕事、人間関係、習慣、暮らし方。

 

私たちの人生には、

 

「ものすごく嫌なわけではない」

「今すぐ変えなくても困らない」

「このままでも一応やっていける」

 

というものが、たくさんあると思います。

 

だから、そのままでも生きていくことはできます。

 

でも、

 

「このままでもいい」と、

「私はこれを選んでいる」は、同じではない。

 

嫌ではないから続けているのか。

 

それとも、

 

「今の私は、これを続けたい」

 

と自分で選んでいるのか。

 

その違いは、とても小さなものに見えて、実は大きいのではないかと思います。

 

自分で「こうしよう」と決めなければ、物事はそのまま動かないことがあります。

 

それが悪いという意味ではありません。

 

ただ、何も選ばなければ、それまでの流れがそのまま続いていくことも多い。

 

だからこそ人生では、大きな決断だけではなく、

 

小さなことから「私はどうしたい?」と自分に問い、自分で決めていくことが大切なのではないか。

 

断捨離をしながら、そんなことを感じました。

 

 

 

 

 

 

 

白か黒だけが「決める」ではない



 

そして、もう一つ気づいたことがあります。

 

「自分で決める」というと、

 

YESかNOか。

やるか、やらないか。

残すか、捨てるか。

 

そんなふうに、白か黒かを決めなければいけないようにも感じます。

 

でも、そうではないんですよね。

 

グレーを選んでもいい。

 

「今はまだ分からない」

 

「もう少し使ってから考えたい」

 

「今すぐ答えを出したくない」

 

そう思うのであれば、

 

「今は保留にする」と自分で決めればいい。

 

それも立派な選択です。

 

答えが出ないことと、何も考えずに放置することは違います。

 

「今は答えが出ない。だから、今は決めないことにする」

 

そこに自分の意思があるのなら、それも自分で選んだ人生の一部なのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

大切なのは、自分の人生に自分が参加すること




 

そう考えていくと、人生を自分で選ぶというのは、すべてのことに明確な答えを出し続けることではないのだと思います。

 

大切なのは、

 

自分の人生を無意識のまま放置しないこと。

 

「私はこれが好きだから選ぶ」

 

「これはもう必要ないから手放す」

 

「これはまだ分からないから、今は保留にする」

 

どの答えでもいい。

 

そのときの自分が感じ、考え、自分なりに決める。

 

それを繰り返していくことが、自分の人生を生きるということなのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

未来の自分なら、これを選ぶだろうか?



 

今回、私は断捨離をしながら、

 

「未来の自分なら、これを持っているだろうか?」

 

という視点で物を見るようになりました。

 

もちろん、未来がどうなるかなんて分かりません。

 

だから未来を当てようとしているわけではありません。

 

むしろこれは、

 

「私はこれから、どんな自分として生きていきたいのだろう?」

 

と、今の自分に問いかけているのだと思います。

 

未来を想像することで、今の自分の望みが見えてくる。

 

そして、その未来につながるものを、今日一つ選んでみる。

 

断捨離という、とても日常的な行動の中にも、そんな人生の選択があるのだと気づきました。

 

「嫌いじゃないから残す」から、

「私はこれを選ぶから残す」へ。

 

そして、

 

「分からないから放置する」から、

「今はグレーにすると決める」へ。

 

人生は、大きな決断だけでつくられているわけではないのだと思います。

 

今日何を残すのか。

何を手放すのか。

何を保留にするのか。

 

そんな小さな選択の一つひとつにも、自分の意思を戻していく。

 

そうして少しずつ、

 

「なんとなく続いている人生」から、

「私が選んでいる人生」へ。

 

断捨離をしながら、私はそんなことを改めて感じました。







魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

 

 

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どうにかしたい悩みのヒーリングセッション




バウンダリーは、相手を遠ざけるための壁ではない




 

「バウンダリー」「境界線」という言葉を初めて聞いたとき、私は少し冷たいもののように感じていました。

 

ここから先は、私の領域。

 

ここからは入ってこないでね。

 

そんなふうに、人との間に線を引いて、相手を遠ざけるもののように感じていたのです。

 

もしかすると、同じような印象を持つ人もいるのではないでしょうか。

 

でも、自分自身のバウンダリーについて考え、少しずつ育てていく中で、今はまったく違うものに感じています。

 

バウンダリーとは、

 

相手を拒絶するための線ではなく、自分と相手の両方を尊重するためのもの。

 

私は今、そんなふうに感じています。






 

「私はこう感じる。だからあなたも同じ」は、本当に尊重なのだろうか

 

 

 

例えば、私はある出来事に悲しさを感じたとします。

 

すると以前の私は、

 

「こんなことをされたら、誰だって悲しいよね」

 

と思ってしまうことがありました。

 

自分が悲しいのだから、相手も同じことをされたら悲しいはず。

 

自分が嬉しいのだから、相手も嬉しいはず。

 

自分ならこうするのだから、相手も同じようにするはず。

 

一見すると、これは相手の気持ちを考えているようにも見えます。

 

でも今は、少し違うように感じています。

 

私は悲しい。

 

それは私の感情です。

 

でも、同じ出来事について相手がどう感じるのかは、相手にしか分かりません。

 

もしかすると悲しいかもしれない。

 

何とも思わないかもしれない。

 

あるいは、私には想像できなかった感じ方をするかもしれない。

 

「私はこう感じる。でも、あなたがどう感じるかは、あなたのもの。」

 

そう考えられることも、相手への尊重なのだと思います。







 

自分と相手を分けるからこそ、相手を一人の人間として見られる




 

バウンダリーというと、「自分を守る」という側面がよく語られます。

 

もちろん、それも大切です。

 

でも、バウンダリーにはもう一つ、とても大切な役割があるのだと思います。

 

それは、

 

相手を自分とは違う、一人の人間として尊重すること。

 

「私ならこうするのに、どうしてあなたはしてくれないの?」

 

そんな怒りの奥には、ときとして、

 

「あなたも私と同じ価値観のはず」

 

という前提が隠れていることがあります。

 

でも、本当は違うのかもしれません。

 

私はこれを大切にする。

 

でも、相手は別のものを大切にしている。

 

私はこの言葉を悲しいと感じる。

 

でも、相手は同じ言葉をそれほど重く受け取らない。

 

私と相手は、同じ世界を生きているように見えて、それぞれ違う経験をし、違う価値観を持ち、違う感じ方をしています。

 

だから、

 

私は私。あなたはあなた。

 

これは、冷たい言葉ではないのだと思います。

 

むしろ、

 

「あなたには、私には分からないあなたの世界があるんだね」

 

と認めること。

 

それは、とても深い尊重なのではないでしょうか。

 

相手を理解することと、受け入れることは違う

 

ここで、私がとても大切だと感じていることがあります。







 

相手を理解することと、その人の行動をすべて受け入れることは違います。

 

 

 

 

「この人には、この人なりの事情があったのかもしれない」

 

と思うことはできます。

 

でも同時に、

 

「それでも私は悲しかった」

 

と言っていい。

 

相手に悪気がなかったとしても、

 

「私はその関わり方は望みません」

 

と伝えてもいい。

 

相手の考えを尊重しながら、

 

「でも私は、その考えには賛同しません」

 

と距離を取ることもできます。

 

以前の私は、相手を理解すると、自分が我慢しなければならないように感じることがありました。

 

相手にも事情がある。

 

悪気があったわけではない。

 

だから私が受け入れればいい。

 

でも、それでは自分の気持ちが置き去りになってしまいます。

 

本当の意味で相手を尊重することは、自分を犠牲にすることではありません。

 

あなたの気持ちも大切。

そして、私の気持ちも大切。

 

その二つを同時に存在させるために、バウンダリーがあるのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

バウンダリーは「壁」ではなく「橋」




 

私は以前、バウンダリーとは壁のようなものだと思っていました。

 

でも今は、むしろ「橋」に近いものなのではないかと感じています。

 

境界線がない状態では、自分と相手が混ざってしまいます。

 

「私がこう思うのだから、あなたもそう思うはず」

 

「あなたが悲しんでいるから、私も何とかしなければ」

 

「あなたが望んでいるから、私は嫌だけれど応えなければ」

 

そんなふうに、どこまでが自分で、どこからが相手なのかが分からなくなってしまうことがあります。

 

でも、まず、

 

こちら側に私がいる。

向こう側にあなたがいる。

 

ということが分かっていれば、その間に橋を架けることができます。

 

「私はこう感じています。あなたはどうですか?」

 

「私はこうしたいです。あなたはどうしたいですか?」

 

「ここまではできます。でも、ここから先はできません。」

 

そうやって、お互いの世界を尊重しながら関わることができる。

 

境界があるから、つながることができる。

 

これは、一見すると不思議なことかもしれません。

 

でも、境界のない「一体化」と、お互いを尊重した「つながり」は、まったく違うものなのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

「誰が悪いか」から、「私はどうしたいか」へ



 

バウンダリーが育ってくると、何か問題が起きたときの感じ方も、少しずつ変わってくるように感じています。

 

もちろん、腹が立つこともあります。

 

「あの人が悪い」と思うことだってあります。

 

それも人間として自然な反応なのだと思います。

 

でも、その先で、

 

「私は何に傷ついたんだろう?」

 

「私は本当は、どうしてほしかったんだろう?」

 

「私は何を大切にしていたんだろう?」

 

「そして、これから私はどうしたいんだろう?」

 

と、自分自身へ意識を戻せるようになっていく。

 

すると、相手を責め続けることだけが、自分を守る方法ではなくなっていきます。

 

相手を悪者にしなくても、

 

「私は嫌だった」

 

と言える。

 

相手を変えなくても、

 

「私はここから離れます」

 

と選べる。

 

相手の価値観を否定しなくても、

 

「私は違うものを選びます」

 

と言える。

 

そこに、自分自身への信頼も育っていくのだと思います。







 

私は私。あなたはあなた。それでも、つながることはできる

 

バウンダリーは、人とのつながりを切るためのものではありません。

 

むしろ、

 

自分を失わずに、人とつながるためのもの。

 

なのだと思います。

 

私は私の気持ちを大切にする。

 

あなたには、あなたの気持ちがあることを認める。

 

私は私の人生を選ぶ。

 

あなたには、あなたの人生を選ぶ自由がある。

 

その上で、一緒にいられるところでは一緒にいる。

 

違うところでは、お互いの違いを認める。

 

そして、どうしても一緒にいることが苦しいのであれば、距離を取ることもできる。

 

それは冷たさではなく、お互いを一人の人間として扱うことなのだと思います。

 

だから今の私は、バウンダリーという言葉に、以前ほど冷たいものを感じません。

 

むしろ、とても優しいものに感じています。

 

自分を大切にするために、相手を悪者にしなくていい。


相手を大切にするために、自分を犠牲にしなくていい。

 

私は私。

 

あなたはあなた。

 

そして、その二人が必要なときに橋を架けて出会う。

 

それが、人と人が本当の意味で尊重し合いながらつながるということなのかもしれません。

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どうにかしたい悩みのヒーリングセッション



「好きだから我慢する」から卒業する——自分とのつながりとバウンダリーを育てる

 

 

 

 

好きなものなのに、関わっていると苦しくなる。

 

好きな人なのに、一緒にいると傷つく。

 

好きな場所なのに、そこにはどうしても不快に感じるものがある。

 

学びたいことがあるのに、その環境には自分には合わない価値観がある。

 

こういうことは、意外と人には話しにくいものなのかもしれません。

 

「好きなら続ければいいじゃない」

 

「嫌ならやめればいいじゃない」

 

外から見れば、その二択で簡単に答えが出るように見えるからです。

 

でも、自分の中ではそんなに単純ではありません。

 

好きだから離れたくない。

 

でも、嫌だと感じている自分もいる。

 

その二つの気持ちの間で、密かに迷い続けることがあります。

 

 

 

 

 

 

「好き」を優先していた頃


 

私自身、以前は「好き」という気持ちをとても大切にしていました。

 

もちろん、好きなものを大切にすること自体は素敵なことです。

 

でも私の場合は、そこに一つの癖がありました。

 

好きなものを得るためなら、同時に存在する「嫌だ」「苦しい」「不快」という感覚を我慢してしまうことがあったのです。

 

「でも、ここは好きだから」

 

「良いところもあるから」

 

「これくらい我慢すればいい」

 

そうやって、「嫌だ」と感じている自分の声よりも、「好き」を優先していました。

 

そのときの私は、好きなものを大切にしているつもりでした。

 

でも今振り返ってみると、好きなものを守るために、嫌だと感じている自分を置き去りにしていたところもあったのだと思います。

 

次の段階で起きたこと

 

その後、少しずつ自分とのつながりやバウンダリーについて考えるようになりました。

 

すると、以前とは違う選択をするようになりました。

 

「確かにここは好き。でも、同時に私は嫌だとも感じている」

 

その「嫌だ」を、なかったことにしなくなったのです。

 

好きか、嫌いか。

 

どちらか一つに決めなくてもいい。

 

好きな部分があることも本当。

 

不快に感じていることも本当。

 

その両方が同時に存在してもいいのです。

 

そして今の私は、好きなものがそこにあったとしても、同時にある不快感が自分にとって大きいのであれば、

 

「今の私には、ここから離れることが必要なんだ」

 

と考えるようになりました。

 

これは、好きなものを否定することではありません。

 

まして、相手を悪者にすることでもありません。

 

好きだったこと、素晴らしいと思ったこと、そこから受け取ったもの。

 

それらはそのままでいい。

 

ただ同時に、

 

「私はここに居続けると苦しい」

 

という自分の感覚も、大切にする。

 

それだけなのです。





 

「嫌だ」は、自分を知るためのセンサー



 

以前の私は、「嫌だ」と思っても受け入れることがありました。

 

でも、何でも受け入れ続けていると、自分の感覚は少しずつぼやけていきます。

 

私は何が好きなのか。

 

何が嫌なのか。

 

何を選びたいのか。

 

本当はどうしたいのか。

 

それさえ分からなくなっていくことがあります。

 

だから今は、「嫌だ」「なんとなく違う」「ここにいると苦しい」という感覚も、自分を知るための大切な情報なのだと思っています。

 

もちろん、違和感を感じたものすべてが悪いわけではありません。

 

「嫌だ」という感覚が、いつでも絶対的に正しい答えを教えてくれるわけでもありません。

 

でも、

 

「私は今、何かに反応している」

 

ということを知らせてくれるセンサーにはなります。

 

そこで一度、自分に聞いてみる。

 

「私は何が嫌だったんだろう?」

 

「何に違和感を感じたんだろう?」

 

「ここに居続けることで、私は自分らしくいられるだろうか?」

 

そうやって、自分の感覚を無視せずに聞いてあげる。

 

それも、自分とのつながりを育てることなのだと思います。






 

バウンダリーにも、育っていく段階がある



 

私は、バウンダリーにもいくつかの段階があるのではないかと思っています。

 

最初は、嫌なことがあっても受け入れてしまう。

 

次に、「私は嫌なんだ」と気づけるようになる。

 

そして、「嫌だと感じている自分を大切にしよう」と、そこから距離を取れるようになる。

 

さらに自分のバウンダリーが育っていけば、いつかは、

 

「ここは好き。でも、これは私は受け取らない」

 

と、同じ場所にいながら自分と他者を分けられるようになることもあるのかもしれません。

 

でも、今の私には、それが正解なのかは分かりません。

 

だからこそ、今できることを大切にしたいと思っています。

 

今の私に必要なのは、何でも受け入れられる自分になることではなく、

 

自分の輪郭をもう一度育てること。

 

「私はこれが好き」

 

「これは嫌だ」

 

「これは心地いい」

 

「これは私には合わない」

 

そんな一つひとつの感覚を、ちゃんと自分のものとして感じられるようになることです。

 

 

 

 

 

 

 

離れることは、弱さではない



 

嫌なものから距離を取ろうとすると、

 

「私が弱いからかな」

 

「もっと気にしない人になったほうがいいのかな」

 

と思うこともあるかもしれません。

 

でも私は今、そうは考えていません。

 

自分の感覚がまだ十分に育っていないと感じる時期だからこそ、何を自分の中に入れるのかを丁寧に選ぶ。

 

それは逃げることではなく、

 

自分自身を育て直すための選択

 

なのだと思っています。

 

そして、距離を取るために、相手を悪者にする必要もありません。

 

「あなたが間違っているから離れます」

 

ではなく、

 

「あなたにはあなたの考え方がある。でも、今の私には合わないから、私は離れます」

 

それでいい。

 

相手を尊重しながら、自分も尊重する。

 

それがバウンダリーなのだと思います。







 

好きなものより、自分を置き去りにしない

 

 

 

好きなものを大切にすることは素敵です。

 

でも、その好きなものを手に入れるために、自分自身を置き去りにしなくてもいい。

 

私は今、

 

「好きだから我慢する」から、「好きだけれど、自分も大切にする」へ

 

少しずつ生き方を変えている途中なのだと思います。

 

そしていつか、自分のバウンダリーがもっと育ったときには、今とはまた違う選択ができるようになっているかもしれません。

 

それは、そのときの自分に任せればいい。

 

今はまず、

 

「私はどう感じている?」

 

「私は本当はどうしたい?」

 

と自分に聞くこと。

 

そして、その答えをなかったことにしないこと。

 

自分との信頼関係は、そんな小さな選択の積み重ねから育っていくのだと思います。

 

好きなものを選ぶことと同じくらい、

 

嫌だと感じている自分を置き去りにしないこと。

 

それもまた、自分と仲良くなっていくための、大切な一歩なのだと感じています。







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どうにかしたい悩みのヒーリングセッション



「人に関心がない」と思っていた私が、

本当の「関心」について考えてみた。

 

 

 

 

前回の記事で、

「気になることを、とことん調べたくなるようになった」という変化について書いた。

 

 

 

その記事を書いたあと、

さらに自分の中で面白い気づきがあった。

 

 

 

私はこれまで、自分のことを

「人にあまり関心がない人間なんだ」と思っていた。

 

 

誰かの噂話や芸能ニュースに興味があるわけでもない。

 

「あの人がこうだったらしい。」

「この人がああ言っていたらしい。」

 

 

 

そういう話には、

昔からそれほど興味がなかった。

 

 

 

だから私は、

「人に関心が薄い人なんだ」と思っていた。

 

 

 

 

 

でも、本当にそうなのだろうか。

 

 

そんな問いが、自分の中に生まれた。

 

 

 

 

 

今回、龍や魔女、言葉の歴史について考えているとき、

私はあることに気づいた。

 

 

 

私が知りたいのは、

「誰が有名だったか」ではない。

 

 

 

 

「なぜ龍という存在が生まれたのだろう。」

 

「どんな世界観があったのだろう。」

 

「どんな時代背景があったのだろう。」

 

そんなことだった。

 

 

 

 

つまり、私が関心を持っていたのは、

一人の人物というよりも、その背景にある物語だった。

 

 

 

 

 

ここで、「関心」という言葉について改めて考えてみた。

 

 

 

関心にも、いろいろな種類がある。

 

 

 

情報として知りたい関心。

 

利益につながるから知りたい関心。

 

娯楽として楽しみたい関心。

 

そして、背景や物語を理解したいという関心。

 

 

 

同じ「関心」という言葉でも、

その向かう先は少しずつ違う。

 

 

 

 

私は今まで、

「人そのもの」に強い関心があるタイプではなかったのかもしれない。

 

 

でも、「その人が生きてきた背景」や、「その考え方が生まれた理由」、

「文化や歴史の積み重ね」には、不思議なくらい惹かれる。

 

 

 

そう考えると、

「私は人に関心がない」という言葉だけでは表せない自分が見えてきた。

 

 

 

 

 

 

 

さらに考えていて、

もう一つ気づいたことがある。

 

 

 

 

最近、自分と向き合う時間が増えたことで、

 

 

 

「なぜ私はこう感じたんだろう。」

 

「どうして私はそう考えたんだろう。」

 

 

そんな問いを自分自身に向けることが増えた。

 

 

 

 

 

すると、不思議なことに、

その問いは自分だけでは終わらなくなった。

 

 

 

「なぜ、この文化は生まれたんだろう。」

 

「なぜ、この言葉は残ったんだろう。」

 

「なぜ、人はこう考えるようになったんだろう。」

 

 

同じ問いが、

世界へと向かっていくようになった。

 

 

 

 

 

 

私は以前、「知る」ということは、

答えを集めることだと思っていた。

 

 

 

でも今は少し違う。

 

 

知るということは、

その背景に耳を澄ませることなのかもしれない。

 

目に見えているものだけではなく、

その奥に流れている物語を感じようとすること。

 

 

 

 

それが、本当の意味で

「理解する」ということなのではないだろうか。

 

 

 

この変化を通して、

私は「新しい自分」が生まれたような感覚になった。

 

 

 

何か特別な能力が身についたわけではない。

 

 

 

 

 

ただ、一つの出来事や、一つの言葉、一つの文化に出会ったとき、

 

 

「その奥には、どんな物語があるんだろう。」

 

そう自然に思えるようになった。

 

 

 

以前の私は、

そこまで考えることはなかった。

 

 

 

だからこそ、この感覚は、

自分の中に新しい意識が芽生えたように感じている。

 

 

 

世界を見る目が少し変わると、

世界そのものが変わって見えてくる。

 

 

 

そして、その変化は、
自分自身を知る旅が、いつの間にか世界を知る旅へと広がっていたことを、静かに教えてくれた。







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「気になることを、とことん調べたくなる。」

それは自分と向き合った先に生まれた変化だった。

 

 

 

 

 

 

最近、自分の中で一つの変化に気がついた。

 

 

 

以前の私は、「気になることはあるけれど、

そこまで深く調べる」ということは、それほど多くなかった。

 

 

 

 

でも今は違う。

 

 

 

 

何か気になる言葉や出来事に出会うと、

 

 

「これはどういう背景があるんだろう。」

 

「どうして生まれたんだろう。」

 

「その時代には何があったんだろう。」

 

 

そんなふうに、自然と知りたくなる自分がいる。

 

 

 

最初は単なる好奇心なのかなと思っていた。

 

 

でも、よく考えてみると、

それだけではないような気がした。

 

 

 

例えば、「魔女」という言葉。

 

私は以前、魔女狩りの話を知っていたことで、

「魔女」という存在そのものが、どこか怖いもの、危険なものという印象を持っていた。

 

 

けれど、調べていくと、

本来の魔女と、魔女狩りで「魔女」とされた人たちは、

必ずしも同じではないことを知った。

 

 

そこには、宗教や時代背景、

人々の恐れや嫉妬、社会の仕組みなど、

さまざまな物語があった。

 

 

 

その背景を知った瞬間、

「魔女」という言葉の印象は大きく変わった。

 

 

 

 

私はそのとき初めて、

「言葉は背景を知ることで、まったく違う姿を見せる」ということを実感した。

 

 

 

 

 

 

 

同じことは、「確信犯」という言葉にも感じた。

 

 

以前は、「悪いとわかっていてやる人」

という意味だと思っていた。

 

 

でも調べてみると、

本来は「自分が正しいと確信して行動する人」という意味だった。

 

 

 

現在では、広く使われている意味も辞書に載るようになっている。

 

それでも私は、

「もともとの意味を知ることには価値がある」と感じた。

 

 

 

言葉は長い時間をかけて育まれてきたものだからこそ、

その歴史も含めて理解したいと思うようになった。

 

 

 

 

 

さらに振り返ると、この考え方は、

以前から自分が興味を持っていた「龍」という存在にもつながっていた。

 

 

 

私は龍を見て、

 

「龍は実在したのか。」

 

ということ以上に、

 

 

「なぜ人は龍という存在を思い描いたのだろう。」

 

「どんな願いや世界観がそこに込められているのだろう。」

 

そんなことを考えるようになっていた。

 

 

 

 

物を見るだけではなく、その物語を見る。

 

言葉を見るだけではなく、その歴史を見る。

 

 

そんな見方が、自分の中で少しずつ育ってきていることに気づいた。

 

 

 

 

 

 

そして、さらに考えているうちに、

一つのことに気づいた。

 

 

 

 

この視点は、もしかすると

「自分と向き合うこと」を続けてきたから生まれたものなのではないか、と。

 

 

 

 

 

自分と向き合うと、

 

「なぜ私はこう感じたんだろう。」

 

「なぜ私はこう考えたんだろう。」

 

という問いを、何度も自分自身に向けるようになる。

 

 

 

 

その問い方が身につくと、不思議なことに、

自分だけではなく、世界にも同じ問いを向けるようになる。

 

 

 

 

「なぜ、この言葉は生まれたんだろう。」

 

「なぜ、この文化は生まれたんだろう。」

 

「なぜ、この考え方が受け継がれてきたんだろう。」

 

 

 

 

そうやって、自分への問いが、世界への問いへと広がっていく。

 

 

 

もちろん、世界のすべてを知ることはできない。

 

 

 

でも、気になったものだけは、

できる限り背景まで知ってみる。

 

 

その積み重ねは、単なる知識を増やすことではなく、

世界をより立体的に見ることにつながるのではないか。

 

 

 

 

最近、そんなことを感じている。

 

 

 

物事には、

表面だけでは見えない物語がある。

 

 

 

 

そして、その物語を知ることは、
世界を知ることでもあり、
自分自身を知ることにもつながっているのかもしれない。







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どうにかしたい悩みのヒーリングセッション



「安心できる場所」を卒業するとき

 〜自分の人生を、自分の足で歩き始めるために〜

 

 

 

 

子どもの頃、親や先生は、とても大きな存在です。

 

 

分からないことを教えてくれる。

 

失敗したら励ましてくれる。

 

危険から守ってくれる。

 

 

 

 

安心できる場所があるからこそ、

私たちは少しずつ成長していくことができます。

 

 

 

だから私は、

 

親や先生の存在が悪いと言いたいわけではありません。

 

 

むしろ、人が安心して心を育てるためには、

そのような存在はとても大切だと思っています。

 

 

 

 

 

 

安心できる場所は、「土台」になる

 

 

 

植物が育つためには、まず根を張る土が必要です。

 

 

人も同じです。

 

安心して話せる。

 

失敗しても受け止めてもらえる。

 

分からないことを質問できる。

 

 

 

そんな環境があるからこそ、

人は少しずつ自分らしさを育てていくことができます。

 

 

 

だから、最初は親や先生を頼ることは、

とても自然なことです。

 

 

 

 

でも、成長には次の段階があります

 

 

 

ある程度心が育ってきたら、

 

今度は少しずつ、

 

自分で考える。

 

自分で選ぶ。

 

自分で決める。

 

 

そんな経験が必要になってきます。

 

 

 

もちろん、最初は不安です。

 

間違えることもあるでしょう。

 

迷うこともあるでしょう。

 

 

 

それでも、その経験を重ねることでしか育たない力があります。

 

それが、

 

「自己信頼」

 

です。

 

 

 

 

 

「安心できる場所」に留まり続けると…



 

安心できる場所は、とても大切です。

 

 

 

でも、もしそこだけに留まり続けると、

 

少しずつ、

 

「親はどう思うだろう。」

 

「先生なら何と言うだろう。」

 

ということが、自分の判断基準になってしまうことがあります。

 

 

 

すると、


自分で考える前に、

 

誰かの答えを探すようになります。

 

 

 

自分で決める前に、

 

誰かに正解を確認したくなります。

 

 

 

それは安心でもありますが、

 

同時に、

 

「その人がいなければ決められない。」

 

という不安も生み出してしまいます。

 

 

 

安心と不安は、

 

実は同じ場所に存在していることがあるのです。

 

 

 

 

 

 

 

一歩踏み出す勇気

 

 

だからこそ、

 

ある時期が来たら、

 

少しずつ自分の足で歩いてみることが大切なのだと思います。

 

 

 

親や先生から離れるということではありません。

 

教えを否定することでもありません。

 

 

 

これまで育ててもらった土台を胸に、

 

今度は、

 

自分で考え、

 

自分で選び、

 

自分で経験していく。

 

 

 

その一歩を踏み出すということです。

 

 

 

 

 

人生は、「正解をもらう旅」ではない

 

 

 

私は以前、

 

誰かが正解を持っていて、

 

私はそれを探しているのだと思っていました。

 

 

 

でも今は、少し考え方が変わりました。

 

 

人生は、

 

誰かから正解を受け取る旅ではありません。

 

 

 

自分で選び、

 

経験し、

 

時には迷い、

 

必要なら修正しながら、

 

自分の人生を、自分の手で育てていく旅なのだと思っています。

 

 

 

 

 

 

自分を信じるということ

 

 

 

「自分を信じる。」

 

その言葉を聞くと、

 

迷わない人になることのように感じるかもしれません。

 

 

 

 

でも、本当は違うのだと思います。

 

 

 

迷ってもいい。

 

失敗してもいい。

 

途中で考えが変わってもいい。

 

 

 

それでも、

 

「私はまた考えられる。」

 

「私はまた選び直せる。」

 

 

 

そう思えること。

 

 

 

それが、本当の意味で自分を信じるということなのではないでしょうか。

 

 

 

 

だから今日も、

 

私は少しずつ、

自分の足で歩いていこうと思います。

 

誰かの正解を探すためではなく、

 

自分の人生を、自分らしい答えへと育てていくために。







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現状を変えたいなら、まずはここから

どうにかしたい悩みのヒーリングセッション



なぜ私たちは「正解」しか言えなくなるのか




 

「今のあなたは、どう思いますか?」

 

そう聞かれたとき、すぐに答えられますか。

 

 

 

私は昔、この質問がとても苦手でした。

 

 

頭の中では何か感じている。

 

でも、それを言葉にすることができない。

 

 

いや、正確には、

 

言えなかったのです。

 

 

 

 

 

「正解」を言わなければいけないと思っていた


 

 

 

学校では、先生が質問をします。

 

 

答えられたら丸。

 

正解なら褒められる。

 

間違えればバツになる。

 

 

もちろん、知識を学ぶためには必要なことです。

 

 

 

でも、私はいつの間にか、

 

「答えるなら正解を言わなければいけない。」

 

そう思うようになっていました。

 

 

 

だから、自信がないときは答えない。

 

考えがまとまっていないときは黙る。

 

 

 

「違います。」

 

そう言われることが、とても怖かったのです。

 

 

 

 

 

本当に怖かったのは、「間違い」ではなかった

 

 

今思えば、怖かったのは間違うことではありませんでした。

 

 

 

怖かったのは、

 

「間違えた私」

 

を否定されることでした。

 

 

 

答えが違う。

 

すると、

 

「私はダメなんだ。」

 

「私は劣っているんだ。」

 

そんなふうに受け取ってしまっていました。

 

 

 

本当は、

 

「答えが違う」ことと、


「その人の価値」はまったく別のことです。

 

 

 

でも子どもの頃は、

その二つを分けて考えることは、とても難しいものです。

 

 

 

 

 

いつの間にか、学ぶ目的が変わっていた

 

 

 

本来、学ぶ目的は、

 

「知ること」

 

「理解すること」

 

「世界を広げること」

 

だったはずです。

 

 

 

でも、いつの間にか目的は変わっていました。

 

 

 

先生に褒められること。

 

親に認められること。

 

怒られないこと。

 

間違えないこと。

 

 

 

つまり、

 

「学ぶこと」よりも、


「評価されること」が目的になっていたのです。

 

 

 

そうすると、

 

意識は知識ではなく、

 

先生の表情を見ています。

 

親の反応を見ています。

 

 

 

「私はどう思う?」

 

ではなく、

 

「先生は何を答えてほしいのだろう?」

 

を考えるようになります。

 

 

 

 

 

「考える」のではなく、「正解を探す」

 

 

 

そんな状態では、

 

本当の意味で考えることは難しくなります。

 

 

 

考えるとは、

 

分からないことを分からないまま持ち、

 

仮説を立て、

 

話しながら整理し、

 

必要なら修正することです。

 

 

 

でも、

 

「正解しか言ってはいけない。」

 

という前提があると、

 

考えが完成するまで話せなくなります。

 

 

 

だから、自分の考えが育たないのです。

 

 

 

 

話すことで、自分を知る



 

不思議なことですが、

 

人は話しながら考えています。

 

 

口に出して初めて、

 

「あれ、私は本当はこう思っていたんだ。」

 

と気づくことがたくさんあります。

 

 

 

だから、

 

途中でもいい。

 

まとまっていなくてもいい。

 

間違っていてもいい。

 

その時点で感じていることを言葉にすることには、大きな意味があります。

 

 

 

 

 

 

「間違えること」は、成長の反対ではない

 

 

 

私は以前、

 

間違えないことが成長だと思っていました。

 

 

 

でも今は違います。

 

 

 

間違えるから考える。

 

考えるから気づく。

 

気づくから修正できる。

 

修正できるから成長する。

 

 

 

だから、

 

間違えることは、

 

成長の反対ではありません。

 

 

 

成長の入り口なのです。





 

自分の考えを話してもいい

 

 

 

人生には、

 

誰かが用意した模範解答はありません。

 

 

 

だから、

 

今の自分が感じたことを話していい。

 

あとから考えが変わってもいい。

 

 

 

 

「前はそう思っていたけれど、今はこう思う。」

 

そう言えることは、

 

間違いではなく、

 

成長なのです。

 

 

 

正解を言うことよりも、

 

自分で考えること。

 

 

 

そして、

 

自分で考えたことを、勇気を持って言葉にすること。

 

 

その積み重ねが、

 

少しずつ「自分を信頼する力」を育ててくれるのだと、私は思っています。







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「正解を探す人生」から、「自分の答えを育てる人生」へ




 

私たちは子どもの頃から、

「答えのある世界」の中で学んできました。

 

 

 

算数には答えがあります。

 

国語にも、多くの場合は求められる答えがあります。

 

理科や社会にも、テストでは正解があります。

 

 

 

正解を書けば丸がもらえ、褒められる。

 

間違えればバツがつき、

時には「なんでこんなことも分からないの?」と言われることもあります。

 

 

 

 

もちろん、学校で知識を学ぶことはとても大切です。

 

けれど私は、大人になってから、あることに気づきました。

 

 

 

 

それは、

 

学校の「正解」と、

人生の「答え」は、まったく性質が違う

 

ということです。

 

 

 

 

 

私たちは、いつの間にか

「人生にも正解がある」と思ってしまう

 

 

 

 

 

学校では、「問い」があれば「正解」があります。

 

 

だから知らず知らずのうちに、

 

「人生にも、どこかにたった一つの正解がある。」

 

そんな感覚を持ってしまうことがあります。

 

 

 

仕事も。

 

結婚も。

 

子育ても。

 

生き方も。

 

 

 

「本当は誰かが正解を知っていて、私はまだ見つけられていないだけ。」

 

そんなふうに感じてしまうことがあります。

 

 

 

 

だから、

 

「先生なら何と言うだろう。」

 

「専門家ならどう答えるだろう。」

 

「みんなはどう考えるのだろう。」

 

と、自分の外へ答えを探しに行ってしまうのです。

 

 

 

 

でも、人生はテストではありません

 

 

 

人生には、数学のような答えはありません。

 

 

もちろん、社会のルールや法律のように、

多くの人に共通するものはあります。

 

 

 

けれど、

 

「どんな人生を送りたいか。」

 

「何を大切にしたいか。」

 

「どんな人間でありたいか。」

 

 

こうした問いには、誰か一人が持っている「唯一の正解」はありません。

 

 

 

だからこそ、

 

人生で本当に必要なのは、

 

正解を探す力ではなく、自分なりの答えを育てる力なのだと思います。

 

 

 

 

 

答えは「外にある」のではなく、「育っていく」



 

「答えは自分の中にある。」

 

私はこの言葉が好きです。

 

 

 

 

ただ、それは

「最初から完成した答えが心の中に入っている」という意味ではありません。

 

 

人と出会い、

 

本を読み、

 

失敗し、

 

喜び、

 

迷い、

 

対話を重ねる。

 

 

 

そうした経験の中で、

 

少しずつ、

 

「私はこう思う。」

 

という答えが育っていく。

 

 

 

外から受け取るのは、「答え」ではありません。

 

外から受け取るのは、

 

新しい視点。

 

新しい体験。

 

新しい価値観。

 

そして、自分で考えるためのヒントです。

 

 

 

それらを受け取りながら、

 

最後は自分で考え、

 

自分で選び、

 

必要なら修正していく。

 

 

 

それが、自分自身の人生を歩むということなのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

自分とのつながりを取り戻す

 

 

 

私たちは、つい「誰かの正解」を探してしまいます。

 

 

でも、本当に大切なのは、

 

「私はどう感じるのだろう。」

 

「私はなぜそう思うのだろう。」

 

と、自分へ問いかけることです。

 

 

 

人生には、誰かが用意した模範解答はありません。

 

だからこそ、自分自身と対話しながら、

自分なりの答えを育てていく。

 

その積み重ねが、
少しずつ「自分を信頼する力」になっていくのだと思います。







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「人は鏡」という言葉が、怖くなくなった日





 

私は長い間、

「人は鏡」という言葉が苦手でした。

 

 

この言葉を聞くたびに、

どこか胸が苦しくなっていました。

 

 

 

なぜなら、私の中では、

 

「嫌な人に出会ったのは、自分にも同じような嫌な部分があるから。」

 

「腹が立ったなら、自分の中にも同じ闇がある。」

 

 

 

そんな意味として受け取っていたからです。

 

 

 

だから、「人は鏡」という言葉は、

とても鋭く感じていました。

 

 

 

 

まるで、

 

「あなたの悪い部分を見なさい。」

 

「ちゃんと認めなさい。」

 

と言われているようで、

心のどこかで後ずさりしてしまう自分がいました。

 

 

 

 

 

もちろん、自分自身と向き合うことは大切です。

 

 

でも、どこか違和感がありました。

 

私は、「人は鏡」という言葉そのものではなく、

その言葉の受け取り方に苦しんでいたのだと思います。

 

 

 

 

そんな中で、ある日、

この言葉の意味が私の中で大きく変わりました。

 

 

 

「人は鏡」とは、

 

自分の悪い部分を映し出すものではなく、

自分自身を知るきっかけを映し出してくれるものなのではないか。

 

 

 

そう感じたのです。

 

 

 

 

ある人との出会いによって、

 

自分が何を大切にしているのかが見えてくる。

 

 

ある出来事によって、

 

自分が本当は何を望んでいたのかに気づく。

 

 

 

悲しみも、

 

喜びも、

 

怒りも、

 

安心も、

 

それらは「悪い自分」があるから生まれたのではなく、

 

自分の大切な価値観や願いを教えてくれる心の反応だったのです。

 

 

 

 

そう思えたとき、「人は鏡」という言葉は、

怖いものではなくなりました。

 

 

 

 

今、私はこんなふうに感じています。

 

 

 

 

人は鏡ではあります。

 

 

でも、その鏡は、

 

あなたを裁く鏡ではありません。

 

 

 

あなたの中にある、

 

大切にしているもの。

 

願い。

 

悲しみ。

 

喜び。

 

 

それらを静かに映してくれる、

 

穏やかな水面のような存在なのだと思います。

 

 

 

水面は何も責めません。

 

何も否定しません。

 

ただ静かに映してくれます。

 

 

 

そして、

 

「こんなことを私は大切にしていたんだ。」

 

「こんな願いがあったんだね。」

 

 

そんなふうに、

自分自身を少しずつ知っていくことができます。

 

 

 

 

 

私は、「自分とのつながり」を大切にしたいと思っています。

 

 

 

でも、その「自分」と出会わせてくれるのは、

人との出会いです。

 

 

人との出会いが問いを運んできてくれる。

 

一人の時間が、その問いを育ててくれる。

 

 

 

そして、その気づきが、

また次の出会いを豊かにしてくれる。

 

 

 

 

 

そう考えると、人との出会いは、

自分を苦しめるためのものではありません。

 

 

本来の自分を思い出していくための、大切な贈り物。

 

 

 

 

私は今、そんなふうに感じています。

 

 

 

だから、「人は鏡」という言葉も、

もう怖くありません。

 

 

 

私にとって、その鏡は、

 

自分を責めるための鏡ではなく、

 

自分を優しく知っていくための水面へと変わったのです。







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人との出会いが、自分という存在を教えてくれる




 

私は「自分とのつながり」をとても大切にしています。

 

 

 

だからといって、

「一人で生きていけばいい」と思っているわけではありません。

 

 

 

むしろ最近、こんなことを感じています。

 

 

 

人は、一人では自分を知ることができない。

 

極端な言い方かもしれません。

 

 

 

 

でも、人との出会いがあるからこそ、

 

 

「私はこう感じるんだ。」

 

「私はこういうことを大切にしているんだ。」

 

「これは嬉しい。」

 

「これは悲しい。」

 

 

そんな自分自身が見えてきます。

 

 

 

 

もし誰とも関わらずに生きていたら、

自分という存在さえ、

今ほど深く知ることはできなかったかもしれません。

 

 

 

人との関わりは、

時に楽しく、時に苦しく、時に悩みをもたらします。

 

 

でも、その一つひとつが、

自分自身を知るきっかけになっています。

 

 

 

 

だから私は今、

人との出会いも、一人の時間も、

どちらも同じくらい大切なのだと感じています。

 

 

 

 

以前、私は

「人は鏡」という言葉に少し苦手意識がありました。

 

 

 

どこか鋭くて、

 

「すべて自分の問題ですよ。」

 

と言われているように感じてしまっていたからです。

 

 

 

でも、今は少し違う見方をしています。

 

 

 

 

私は、「人は鏡」という言葉は、

 

人は、自分を映し出してくれる存在。

 

 

 

そんな意味なのではないかと思うようになりました。

 

 

 

 

誰かとの出会いがあるから、

 

自分の価値観が見えてくる。

 

 

 

誰かの言葉によって、

 

自分の本音に気づくことがある。

 

 

 

誰かとのすれ違いによって、

 

自分が本当に望んでいたものが見えてくる。

 

 

 

 

 

相手が答えを持っているのではありません。

 

 

 

 

相手が、自分の中に眠っていた

問いを見つけるきっかけをくれているのです。

 

 

 

 

だから、人は鏡なのかもしれません。

 

 

 

 

そして、その問いを育てる時間が、一人の時間です。

 

 

 

 

 

人との関わりの中で、


 

「どうして私はこんなに悲しかったんだろう。」

 

「なぜ、あの言葉が心に残ったのだろう。」

 

 

そんな問いが生まれます。

 

 

 

 

そして、一人になって静かに考える。

 

 

 

本を読む。

 

自然の中を歩く。

 

ぼんやり空を眺める。

 

 

 

そんな時間の中で、

少しずつ自分の答えが見えてきます。

 

 

 

私は、人との時間と、一人の時間は

反対のものではないと思っています。

 

人との出会いが、気づきの種を運んできてくれる。

 

一人の時間が、その種を大切に育ててくれる。

 

 

そして育った気づきが、

また次の人との出会いを豊かにしてくれる。

 

 

 

その繰り返しの中で、人は少しずつ自分を知り、

少しずつ自己信頼を育てていくのではないでしょうか。

 

 

 

だから私は、「自分とのつながり」は、

一人だけで完成するものではないと思っています。

 

 

 

人との出会いによって問いが生まれ、

 

一人の時間によってその問いが育ち、

 

また人との出会いによって新しい景色が見えてくる。

 

 

 

そんな温かな循環の中で、
人は少しずつ「本来の自分」と出会っていくのだと、私は感じています。







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